2022年3月
石灰岩になりたい


 叔父が亡くなった。小さい頃にはキャッチボールの相手をしてもらったり、海水浴に連れて行ってもらったりと、何かと面倒を見てもらった叔父である。
 棺の中の叔父は安らかに眠ったような穏やかな顔をしていた。

 人間、いや生物の致死率は100%。生命として生まれてきたものたちは、間違いなく100%の確率で命を終える。
 生命としての時間が終わったとき、必然的に生命体だったものは無機物へと還っていく。地球から与えられた元素で生命という不思議な有機物ができ、再び無機物として地球に還っていく。我々はその真っただ中にいるのだ。
 現在の日本の社会では、ヒトは火葬され、骨となって、骨壺の中に入れられ、お墓の中に納められていくのが普通の流れなのだろう。昔はそのまま土に埋め、バクテリアをはじめとする分解者たちによって有機物はゆっくり分解されていったのだが、現在のやり方では1時間ほどのうちに、脳も筋肉も内蔵も、水や二酸化炭素や窒素酸化物となって空気中に散りぢりとなり、骨がリン酸カルシウムの遺骨(遺灰)という形で残される。自然界の時間の流れからすれば、あっという間に有機物から無機物に変わってしまうわけである。
 
 人の死に接すると、自分のことも考えたくなる。
 地球上の生命体はエネルギーを使って生きている。植物はそのエネルギーを太陽エネルギーから光合成というシステムを使って作り出すことができるが、光合成や化学合成ができないそれ以外の生物は、他者を食べることによってしかエネルギーを獲得することができない。
 植物が獲得した太陽エネルギーは、植物を動物が食べ、その草食動物がまた別の何者かに食われる…という循環の中で、受け渡されていく。我々が生きるためのエネルギーの源をたどっていくと、最後にたどりつくのは太陽エネルギーなのだ。そこには植物が太陽から獲得したエネルギーをみんなで奪い合っている構図が見えてくる。
 地球で最強の生物となってしまったヒトは、他者を食うことはあっても、食われることは皆無となってしまった。ひとたびヒトが何かに食われたとすれば、もうそれは大事件である。クマであれ、ライオンであれ、食った者は人喰い○○≠ネどとレッテルを貼られ、大抵の場合、ヒトによって命を絶たれてしまう。
 それでも、土葬だった昔には、ヒトもその循環の中にいた。生態系の頂点にあっても、死んでしまえば、自然の一部として同じ振る舞いをすることができていた。だが、今の日本ではヒトだけが死んだ後も誰かにその体の有機物を分け与えることなく、無機物に還っていくのだ。
 
 火葬の割合がほぼ100%となっているらしい現在の日本では、埋葬の場所の問題や法律の問題など、土の中に眠るのはかなり難しい。自然界にエネルギー源として有機物を還すのは無理かもしれない。そして、そんな幾多の困難を乗り越えてまで、ゆっくりと無機物に還ろうなどとは思わない。自分が死んだあとのことに多大なエネルギーが使うよりも、生きているうちに別のところで使いたいと思う。
 骨灰になるのは致し方ない。だが、骨壺に入って墓の中に眠り続けたくはない。
 何千年、何万年というスケールで考えれば、墓の中に閉じ込められた骨灰もやがては自然の中に循環していくのかもしれない。だが、墓という人工物の中でしばらくの時間閉じ込められているよりも、もっと早く自然の中に還っていきたいものだ。
 生物は海で生まれた…らしい。
 ならば、海に還るか。
 焼いた骨を粉末状にまですり潰せば、リン酸カルシウムの粉末になる。遺骨の状態で海に投げ入れれば死体遺棄になるが、パウダー状になっていれば話は別らしい。
 リン酸カルシウムは水には溶けないから、海水に入った骨灰は拡散し海中を漂い、あるものは海底に達し、あるものは別の生物の体の中に入っていくかもしれない。もしかしたら、海流に乗って遠いところまで運ばれていくかもしれない。
 リン酸カルシウムの結晶は燐灰石(アパタイト)という。地球上のどこかでこれから燐灰石ができるとすれば、その中の一つの分子として組み込まれるかもしれない。あるいは、リン酸が炭酸に置き換わって炭酸カルシウムとなって、石灰岩の中の一分子となることだってあるかもしれない。
 地球の中の物質の循環に加わることができれば、湿っぽい墓の中にいるよりも、死んだ後も何やら楽しそうではないか。
 しかし、誰が遺骨をすり潰して、海に撒いてくれるだろうか。ここが一番の問題である。

 





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