2021年8月
ムササビ



 すぐ近くの道路脇に「熊出没地点」の看板が出現したのは6月のことだった。
 榛名山麓のあちこちにそんな看板はいくつもあるので、珍しいものではなく、クマがいるということもわかっているので、それほど驚くようなことではないのだが、近くに看板が立つとちょっと気になる。
そして、さらに、このあたりでクマを見た… という話を聞いて、怖いもの見たさ?でその現場へ行ってみた。クマに襲われたら怖いに決まっているが、クマを見たいという好奇心の方がはるかに上回っている。もちろん、もしものためにクマよけスプレーを身に付けて…。

 当たり前だが、「見たい」と思って見られるほどクマの密度は高くない。クマと遭遇できるのは、相当な幸運がなければならないだろう。そして、その幸運はあいかわらず持ち合わせてはいなかった。
 しかし…
 クマのいそうな場所をめざして歩いて行くと、頭上に大きな穴が開いた樹木が眼に入った。木はコナラだろうか。そこに開いている穴は目測で直径8〜10cm。キツツキが巣穴として開けた穴にしては大きすぎる。
 木に開いた穴として真っ先に思い浮かぶのはムササビである。もちろん、ムササビが木に穴を開けたわけではなく、開いている穴を利用しているだけであるが。
 ここ数年、ムササビはずいぶんとなじみのある生物となってきていた。我ながら、ムササビを見る眼、いやムササビの巣穴を見る眼ができてきたと密かに思っているのである。 これまでにムササビを確認できた樹洞は、いずれも教えてもらったものであるが、4カ所ある。顔を覗かせていたり、そこから出てきて飛んで行ったのを確認したものが、である。そんなことから、なんとなく、この穴はいそうだな、というのが感覚的にわかってきた、ような気がしていた。
 そして、この樹洞は… 大きさはまさにムササビ向き。穴の下の縁にはゴミも付いていない。クモの巣が穴を塞いでいるなどということもない。穴の口がきれいになっているということは、何者かが出入りするたびにゴミを体に付けたりして、自然に穴の縁から取り去っている可能性が高い。これは使用中の巣…かも!
 穴の中にムササビがいるかどうか確かめるには、木を叩いて見ればいい、としばらく前に教えてもらったのを思い出した。驚いて、何ごとかと穴から顏をのぞかせるというのである。見つからないためには、穴の中でじっとしている方が得策だと思うのだが、ムササビは敢えて顏を出して原因を探るらしい。
 そこで、しばらく穴の様子をうかがったあと、落ちていた小枝で樹の根本を軽くトントントン…と叩いてみた。
 そして、叩いた樹の幹から目を離し、上を見上げると…
 


 眼が合った!こちらが見上げる前から、彼(彼女?)は見下ろしていたのだ。ムササビだ!まさか本当に出てくるとは!!
 大きな眼で下を見ている。本当のところはどうだかわからないが、動じている様子でもない。そして、そこから動こうとしているわけでもなさそうだ。

 しばらく下を見ていたかと思ったら、気のせいか、いつの間にか、ぼーっと虚ろな目つきに変わっているように見えてきた。まさか、木を叩かれて脅かされて出てきたというのに、顏を出したまま寝てしまうつもりか?
 そういえば、何度か見たことのある穴から顏を出したムササビもよくそんな顔つきをしていた。視点の定まらないような、ぼーっと遠くを見るような目つきである。夜行性の彼らにとって、太陽の出ている時間帯はお休みタイムで、寝ているところを起こされて、よく目が醒めないような、寝ぼけているような… なのかもしれない。
 しばらくして、唖然と見上げる人間を、ぼんやりした頭で「安全」と判断したのか、暗くなるまでのもうしばらくの間、昼寝を決め込むつもりなのか、何ごともなかったかのようにムササビは樹洞の奥へと消えて行った。
 





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