2021年5月
クロオオアリ


結婚飛行のため巣穴から出てきた新女王    2021.5.28. 榛名山西麓


 5月の終わりの良く晴れた日の夕方のこと。玄関を開け、足を踏み出そうとしたそこに数頭の大きなアリの姿を見つけた。
 オットト…と、とっさに足の置く位置を変え、体制を整え直して覗き込んでみると、アリ達はその気配を察したのか、ザワッ!と身構えるような反応をした。数頭のアリと思ったが、よく見れば、周りにはもっといる。石でできた段差の下の固まった砂に開いたアリにしては大きな穴から、大きな翅を背中に付けた翅アリと、いつもいる大きな黒いアリが入り混じって顔を覗かせ、あるいは穴のまわりをウロウロと歩き回っている。そんな様子をしゃがみこんでじっと見ていると、アリ達はやはりその気配を察したらしく、ジワジワと穴の中へと引き下がっていく。そうかといって、穴の中にすっかりと消えてしまうわけではなく、穴の入り口にいくつもの顔を並べて、外の様子をうかがっているのだった。
 頭の上をブーンと音をたてて飛んでいくものもいる。一瞬、クマバチかスズメバチでもやってきたのかと思ったが、そうではなかった。大きな翅アリが翅を震わせて飛んでいたのだ。翅の生えたアリの姿を見ることはこれまでも何度かあったが、翅アリの翅音を聴いたのは初めてだ。クマバチやスズメバチは音をたてながら長い間ホバリングなどしながら飛び回ることがあるが、この翅アリの飛行は長く飛び続けるようなものではなかった。
 飛び回るものは1頭だけではないらしく、背中やら、頭やら、あちこちにぶつかってきてはくっついていく。玄関先の足元にいたのはほんの一握りで、もっとたくさんの翅アリたちが飛び出していたのだ。
 これは、結婚飛行!
 「結婚飛行」というのは、巣の中で育った新しい女王アリと雄アリが一斉に飛び立ち、交尾して、新しい巣を作るために拡散していくというものである。話や書かれているものを読んだことはあるが、実際にその飛び立つのを見るのは初めてだ。
 アリ達がはい出してきているのは一つの穴だけではなかった。30cmも離れていない隣の穴からも同じように、翅をつけたのや、そうでないものもワサワサと穴の周りで動き回っている。きっと、この穴は地下でつながっているのだろう。同じ巣のアリ達が一斉に外へ出ようとしているのだ。
 そんな様子をじっと見ていると、翅をつけたものにも2つのタイプがいることに気がついた。翅の長さを含めれば2cmにはなろうかという大きなものと、その半分以下くらいの小さなもの。おそらく、大きなのが女王で、小さなのがオス。たしかに、いっしょになって外へ出ようとしている。
 さらにもっと見ていると、翅をつけていないのにも比較的大きなのと、小さなのがいる。働きアリ(ワーカー)なのだろうが、同じ種類だろうか。アリの社会は複雑で、種によっては別の種類のアリの巣を乗っ取って、そこにいた働きアリを奴隷として使うようなこともあるというから、同じ巣穴から出てくるからといって同じ種類とは限らない。もちろん、食糧調達係や警護係など、働きアリがさらに分化して、それぞれの形が変わっている種も少なくないらしい。そんな翅を付けていない働きアリたちも翅を付けたアリたちと入り混じって、巣穴の周辺で右往左往している。
 それにしても、アリは怖い顔をしている。穴から外の様子をうかがうようにして並んだアリの面々は、闇の世界で生きるマフィアの顔役たちが暗闇で外を睨んでいるようだ。
 そして、気がついた。体の大きな働きアリの1頭が穴の前でじっと動かずに顔をこちらに向けている。他の働きアリに比べて妙に頭が大きく見える。頭が大きいということは、その前面にある大アゴも大きく、いかにも凶暴そうだ。彼…、いや彼女は用心棒の役割を与えられているのだろう。それとも、結婚飛行を指揮する重要な役割だろうか。
 

穴の中から外を窺うアリの面々

 働きアリらしいのを捕まえて、顕微鏡で見てみる。
 腹部にはたくさんの毛。胸部の輪郭はなだらか弧。腹柄節は…。
 どうやら、このアリはクロオオアリ Camponotus japonicus のようだ。ムネアカオオアリと並んで大型のごく普通のアリである。
 アリの種類によっては一つの巣に複数の女王がいるというのもあるようだが、クロオオアリの巣の中には女王は1頭だけなのだとか。その女王の寿命はなんと10年〜20年という。

 翌日。巣穴の周辺はいつもの日常に戻っていた。翅の生えた個体は見当たらず、働きアリが数頭いるのみ。
 社会性の昆虫とされるアリにとって、結婚飛行は1年で最大のイベントに違いない。巣の中にたくさんの翅の生えた女王やオスが密集していた結婚飛行の前と、みんな出て行ってしまった翌日の妙に静かな巣穴。結婚飛行のときのザワザワした巣穴の様子を見た後では、廃墟のようだ。
 さらに数日後、様々な姿をしたアリ達が這い出てきた穴はふさがれていた。雨が降って流れてきた砂で埋まったというようではなく、アリ自らが入り口をふさいだように見える。もうそこに巣穴が開いていたことさえわからない。残ったアリ達は、巣の奥で今、何をしているのだろう。
 玄関先の巣の女王はいつからそこにいたのか。我々がここに越してきたのが2004年。もしも、そのころに女王がやって来て、そこを巣と定めたとしたら、17年の時間が経過している。それでも、女王の寿命の範囲内だから、その女王はこの玄関先の地下1mよりも深い場所で、今まで、ずっといっしょに生き続けてきた可能性もある。
 光の無い暗い穴の奥でひたすら卵を産み続ける女王。彼女が最後に見た光の世界はいったい何年前のことだったのだろうか。






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