2019年4月
フザリウム




オレンジ色になった樹液  2019.4.22. 榛名山西麓


 春になると雑木林の樹木の幹にオレンジ色の毒々しい色が出現する。今年も例にもれず、幹の途中からオレンジ色の液体状のものが流れ落ちるようにしてくっついている樹木を見つけた。それは液体状とはいえゼラチンのような、あるいはゾル状の様相で、見た目にはあまり気持ちの良いものには見えないかもしれない。
 それらの樹木はミズキであることが多いのだが、たまには別の樹木がこんな状態になっていることもある。その秋から冬にかけて切ったミズキの切り株ならば、ほぼ100%がこんな状況である。
 春になって、樹木たちは生き返ったように、根から水分を吸い上げるようになる。冬の間は乾いていた幹の表面だが、春には内部から水分があふれ出てくることさえある。明るい雑木林の中を歩いていると、雨も降っていないのに、幹の途中からすっかり濡れたようになっている樹木を見かけるものである。とくにミズキは「水木」と表されるようにたっぷりと水分を含んでいて、切り株などからは水がしたたり落ちていたりする。
 春の樹木の幹に見えるオレンジ色の液体の正体はこの樹液が変わったものなのだ。
 樹液として樹木からあふれてくる液体はただの水ではない。濃度や成分の違いはあるのだろうが、糖分が含まれている。クヌギやコナラなどの樹液にカブトムシやクワガタが群がるのはこの糖分を求めてのことである。
 そして、樹液を欲しがるのは昆虫たちばかりではない。目に見えないような小さなバクテリアたちもそれは同じことだ。
 このグロテスクとも思えるオレンジ色に盛り上がった樹液の塊はコウボ菌の仕業らしい、と聞いたことがある。コウボ菌といえば、日本酒を作ったり、パンの発酵に使われるイースト菌もコウボ菌である。もちろん、「コウボ菌」という一種類の菌がいるわけではなく、単細胞の真菌類を総称してそう呼んでいるにすぎない。コウボ菌≠ノはたくさんの種類があるわけである。
 コウボ菌もエネルギーを作り出すために、呼吸をする。エネルギー源である糖類を分解し、そこから活動するためのエネルギーを取り出すのである。その過程で副産物が生まれることがある。それがアルコールであったり、乳酸であったりするのだが、コウボは別にこんなものを作ろうとしているわけではなく、エネルギーを取り出すために、糖類を何らかの形に分解したいだけなのだ。この樹液にとりついたコウボ菌≠ェ、エネルギーを取り出す過程で、アルコールでも乳酸でもない何かオレンジ色の物質を作り出しているとしても何ら不思議ではない。
 そのコウボ菌を見てみようと思って、問題の樹液があふれているその部分をヘラですくってみた。すると、意外なことに、その表面はヌルヌルの状態ではなく、薄い膜が覆っていて、かさぶたのようになっている。そのかさぶたのような膜の下に少し濁ったような粘性の低い樹液があった。その液体を顕微鏡で覗いてみる。
 顕微鏡の視野に広がったのは、透明な楕円形だった。おそらく、これがコウボ菌なのだろう。だが、オレンジ色には見えない。オレンジ色の色素を含んだ物質はどこにもなかった。見えるのは同じような形と大きさをした透明なものたちばかり…。このコウボ菌たちがオレンジ色の何かを作っているのだろうか。


顕微鏡でのぞいてみた
 …コウボの群れ

 しかし、数日後、あのオレンジ色の色素を作るのは正確にはコウボ菌≠ナはないのだという事実を知った。その真犯人は「フザリウム」という糸状菌なのだとか。カビの一種である。「コウボ」には種類がたくさんあるとはいえ、糸状菌はコウボではない。糸状菌が単独で存在することはない。オレンジ色の物質を作るものたちを見極めたかもしれないと思っていたのだが、ちょっと早とちりだった。オレンジ色の樹液の中はそんな単純なものではなく、いろいろなものたちが絡み合って、複雑な小さな世界を形成しているのだろう。コウボ菌の発酵が始まり、しばらくしてからこのフザリウムという糸状菌がオレンジ色の色素を出すようになるようである。
 コウボ菌とフザリウムの関係はよくわからないが、あらめて、その真犯人・フザリウムを見ようではないか。
 今度はかさぶたの下の液体ではなく、少々見づらいのだが、ゾル状ともゲル状とも言い難いオレンジ色の部分をとり、プレパラートにこすりつけるようにして、カバーグラスをかけてみた。
 顕微鏡下には、数日前に見たのと同じようなコウボ菌の群れ、そして、その中に混じってサヤエンドウのような形をしたものたちもいた。これがフザリウムか?!
 さらに視野を移動させてみると、菌糸のようなものも見つかった。かさぶたのようになっていたのは、こんな菌糸のためなのだろう。ドロドロ、ヌルヌルのように見えて、実は極小ながら繊維質のような構造ができあがっていたわけである。
 春の樹木がもたらしてくれる樹液は、コウボ菌だけではなく、オレンジ色の物質を作り出す糸状菌、そしておそらくもっと別のものたちにも糖分というエネルギー源を提供し、そのおかげで、そこには単純ではないコロニーが形成される。たまたまフザリウムという菌がオレンジ色の目立つ色素を作るので、ミズキのコロニーが目立つけれど、カブトムシたちが集う夏のクヌギやコナラの樹液も顕微鏡で見てみれば、きっとすごいことになっていることだろう。


オレンジ色の部分
サヤエンドウのようなのがフザリウムか?

低倍率では菌糸が広がっているのが見える

 季節が進み、木々が新緑になるころ。気が付けばミズキの樹液は乾き、オレンジ色のコロニーは干からびたような姿で幹にわずかに残るばかりとなっている。溢れ出す樹液の中で繰り広げられた小さなものたちの初春のひとときの饗宴は静かに終わり、季節が一つ進んだことを教えてくれていた。






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