2018年7月
ルリボシカミキリ



ルリボシカミキリ  Rosalia batesi


 梅雨明けの雑木林でルリボシカミキリを見つけた。
 梅雨明けの空にふさわしい空と同じような水色に、黒々とした斑点。誰がこんなデザインを考えたのだろうと、見るたびにその色彩には感心してしまう。少し小さめに見えるのはオスだからだろう。今季最初のルリボシカミキリだった。
 高校生の中でルリボシカミキリという甲虫の知名度は意外と高い。カブトムシやクワガタに比べれば負けるかもしれないが、カミキリムシの中では、シロスジカミキリやゴマダラカミキリなどよりもはるかにその種名は認識されている。ゴマダラカミキリなど見かけることはあっても、その正確な和名を知っている人はそう多くはないのだが、現物を見たことがなくても、ルリボシカミキリの名前は知っているという高校生は多い。
 それはルリボシカミキリが美しい、という理由ではなく、国語の教科書に福岡伸一氏の「ルリボシカミキリの青」というエッセイが掲載されているからなのである。教科書という本は、その教科書を使用している学校へ通っている限り、好き嫌いに関係なく読まざるを得ない。全国の東京書籍の「国語総合」の教科書を使っている高校では「ルリボシカミキリ」は知っていて当たり前の昆虫になっていることだろう。
 この国語の教科書のおかげで、高校の国語の先生の「ルリボシカミキリ」の認知度も相当高くなっているようだ。もしかしたら、理科の先生よりも多くの人が知っているかもしれない。もちろん、本物を見たことがあるという人はそう多くはないかもしれないが。
 というわけで、ここ数年、国語の先生にルリボシカミキリのことを聞かれることがよくある。あるいは、本物が見たい、とも。福岡伸一氏のエッセイが、本物を見たいという気持ちを強く刺激するのかもしれない。だが、なかなかうまくいかないもので、ルリボシカミキリの成虫が現れるのはたいてい一学期の授業が終わった後か、夏休み中である。「ルリボシカミキリの青」をいつごろの季節に授業でやるのかわからないが、なかなかタイミングは合わない。
 今年も一学期の授業が終わるのを待っていたかのようにルリボシカミキリは現れたのだった。
 鮮やかな色彩は、何度見ても神秘的でさえある。
 生徒にはタイミングよく紹介できないかもしれないと迷いながらも、捕まえてみた。
 しかし、机の上に置かれたルリボシカミキリは少し精彩が欠けたように見える。人工的な色彩のあふれる屋内では、ルリボシカミキリの青は周りの色に紛れてしまうのだろうか。自然の中ではあんなに鮮やかに見えるのに。
 数日後、ルリボシカミキリはやはり目的を達することなく、死んでしまった。
 そこで、せめて標本として残して本物≠見せてやろうと思ったのだが、それも浅はかだった。標本にするため、脚を伸ばし、形を整えたルリボシカミキリの体は日に日に鮮やかな青を失い、黒っぽい姿へと変わってしまった。もはやあの驚くような青さはどこにもない。そこにあるのは、色あせたカミキリムシの死体。生きているときの姿があまりにみずみずしいので、その姿を知っているがゆえにそのコントラストはあまりに無念である。福岡氏の文章に心を躍らせた人が見たら、それこそ逆効果になることだろう。
 昆虫の中には、タマムシのように死んでも生きているときの鮮やかさを長い間保つようなものもいるが、ルリボシカミキリはそうではなかった。
 ルリボシカミキリの青は、自然の緑の中で、みずみずしく躍動的に動く生≠フ瞬間だけに与えられた宝石のような輝きだったのだ。机の上で、青い輝きを失ったルリボシカミキリがそれを遅まきながら教えてくれていた。 





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