2018年10月
カメムシは危険な香り



 秋も深まりつつある10月の初め。埼玉県本庄市にある職場では、夜になると網戸にたくさんの緑色のカメムシたちが集まるようになってきた。
 どこでもカメムシたちは嫌われるような存在らしく、この職場でも例外ではなかった。その嫌われる最大の理由はあの臭いにあることはほぼ間違いないだろう。
 窓にへばりつくようにして集まってくるカメムシは腹部を見せているので、そのままでは、背面の様子がわからず、その正体は判らない。そこで、窓を開けて手を伸ばして捕まえてみると、背中側も緑色一色だった。「アオクサカメムシ」というのが頭に浮かんだが、妙にツヤツヤしている。これは「ツヤアオカメムシ Glaucias subpunctatus」のようだ。どちらかといえば南方系のカメムシで、自宅周辺ではこれまで見たことはなかった。
 捕まえてきたカメムシを容器に入れようとしたところ、素早い動きで手の中から逃げ出し、あのカメムシ臭を残して蛍光灯へ向かって飛び立ってしまった。大ヒンシュクである。その後、何とか回収したのだが、しばらくの間カメムシ臭が漂っていたのはいうまでもない。
 カメムシというのは種類を問わなければ春夏秋冬いつでも見かける機会がある。氷点下10℃を下回る榛名山麓の冬でも例外ではない。成虫で越冬する種類も多く、真冬には室内へ入り込んだり、薪の中や落葉の下でも見かけることがある。そんなときは仮死状態のようになっていて全く動かない。もちろんそんな状態では臭いを出すこともない。
 秋が深まるにつれ、成虫越冬のカメムシたちは、より快適な空間である家の中に入ろうとしているのかもしれない。
 それにしても、あのカメムシ臭はいったい何なのだろうか。臭い(匂い)の正体は化学物質である。空気中に何らかの化学物質が放出され、それが鼻の奥にある感覚細胞を刺激し、脳がそれを臭いとして認識するのだ。
 昔からカメムシの臭いは興味の対象であったらしく、その正体を特定しようとする科学者は数多くいた。
 1965年には Tsuyuki et al の「Stink Bug Aldehydes 」という論文が出されている。ここでは12種類のカメムシをから放出される成分を分析し、数種類のアルデヒドが見つかったことが報告された。以降、カメムシの臭い成分を特定する研究は続き、アルデヒド類、アルコール類、エステル類、炭化水素類等が次々と特定されていった。こんないろいろな物質がブレンドされて、カメムシの腹部にある臭腺から放出されるのだ。
 中でもアルデヒドは臭いの成分として主要な物質とされる。アルデヒドというのは有機化合物の末端に炭素・水素・酸素でできたアルデヒド基がくっついたものの総称で、身近なところでは二日酔いの原因とされるアセトアルデヒドがある。有毒物質で、分子内に含まれる炭素原子の数が少ないほど毒性が強いのだとか。ちなみに、炭素原子が1つだけのものはホルムアルデヒドでシックハウス症候群の原因ともなっている。炭素原子2はアセトアルデヒド。二日酔いの状況は体内に毒物をため込んだ状態といえる。
 カメムシの臭い物質にたくさん含まれているとされるのは「トランス−2−ヘキセナール」というアルデヒドで、炭素原子の数は6。一般的にカメムシ臭のアルデヒド類は炭素原子の数が6〜8のものが多いのだとか。
 カメムシ臭が嫌だ、とか騒がれる反面、コリアンダー(パクチー)は好き、という人もいる。コリアンダーに含まれる成分も数種類のアルデヒドと特定されていて、カメムシソウ≠フ別名を持つコリアンダーの匂いとカメムシの臭いの成分はある程度共通したものがあるというのである。
 カメムシ臭の主役の一つである炭素原子6の「トランス−2−ヘキセナール」は、葉の臭(匂)いの主成分でもあるという。ヤブ漕ぎのときに漂う青臭い臭いはこれだったのだ。わずかに漂うような量であれば、癒し効果が得られるというから、森林浴の有効成分の一つなのかもしれない。多すぎれば臭く、微かな量であれば香りなのだ。
 コリアンダーがよく使われる東南アジアではカメムシが香辛料として使われているというから、やはりその濃度が問題となるのだろう。あるいは習慣、あるいは慣れなのだろうか。

 
エゾアオカメムシ Palomena angulosa 
2018.10.12.  榛名山麓


 
腹側からみたエゾアオカメムシ
赤い ← の先に臭腺がある
   
拡大してみると…
中脚の付け根付近に臭い物質を吹き出す臭腺の穴が見える


   10月の榛名山麓の庭先でたくさん見られるものにエゾアオカメムシがいる。職場にいたツヤアオカメムシは全身緑色だが、こちらは緑色に少し茶色の部分が入る。カメムシの前翅の付け根側は甲虫の上翅のように硬いのだが、先端部分はハチやアブの翅のようになっている。翅が半分硬くて、半分柔らかいのでカメムシの仲間は「半翅目」と呼ばれているのだ。エゾアオカメムシはこの翅の柔らかい部分が茶色である。
 このエゾアオカメムシの臭いはどんなものだろうと思って、1頭を捕まえてみた。鼻を近づけてみたが、何の臭いもしない。掴まれたくらいでは伝家の宝刀は使わないのだろうか。そこで、目に付くところにいた6頭をペットボトルの中に入れて、カシャカシャと少しだけ振ってみた。そして、キャップを開ける…。カメムシ臭だ。
 しかし、ツヤアオカメムシとエゾアオカメムシの臭いは区別がつかない。臭い音痴?にとってはどちらもカメムシ臭である。カメムシの臭い物質を分析した人達は、それぞれの種ごとに何がどれくらいの割合で入っているかを調べていて、それは種類によって異なることが判っているから、理論的にはカメムシの種類で臭いも異なるはずなのだが、ヒトの臭覚にとってそれは微妙なものなのだろう。しかし、世の中には「臭気判定士」と呼ばれる人達がいる。れっきとした国家資格の一つである。こんな資格を持つ人ならば、臭いでカメムシの種類を当てられるようになるのだろうか。残念ながら、身近なところでこの資格を持っている人を知らないので確かめようがない。
 さて、カシャカシャと振ったペットボトルの中のカメムシたちだが、しばらく眺めていると、ペットボルトの底でもがき始めた。引っくり返って脚をバタバタさせているもの、やっと起き上がっては再び引っくりかえるもの…。そして、30分も経たないうちに、腹部側の緑色の濃い個体1頭が動かなくなってしまった。カメムシが自ら出した物質によって、中毒死してしまったのだろう。ペットボトル内の空気はカメムシの致死量に達するくらいまで汚染されたということか。カメムシの臭いは、密室で使えば自らも滅びるかもしれない、両刃の剣のような武器なのである。



 





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