2017年5月
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道端に咲いたササバギンランの一群 2017.5.27. 上と同じ場所 一株を残して盗掘されていた 2017.5.30. |
ここ数年の間、道端にササバギンランが数株の群れを作って花を咲かせる場所があった。 今年も花をつける季節のずっと前から芽が出てくるのを待っていると、期待に違わずランとわかる単子葉の葉が芽を出して、5月の下旬には白いたくさんの花をつけた。 今年花をつけたのは5株。手元に残っている2年前の2015年の記録でも5株が花をつけたとあるから、2年という年月では増えもせず、変化は無かったことになる。 ところが、そろそろ花も終わり頃…という5月下旬になって、その場所を通りかかると、あろう事か1株を残して消え去っているではないか。花が折り取られた、というものではない。根こそぎ掘られたというものだ。盗掘である。ご丁寧にも、掘った場所には落葉が掛けられていて、掘った形跡が判らないようにしてある。証拠隠滅の工作がなされているということは少しは後ろめたい所があったのだろう。 花の季節は植物が最も盗掘にあいやすいときだ。花が無ければそこにそれがあるのが判らないのに、花が咲くと、昆虫ばかりか悪い人間も連れてきてしまう。5月のこの季節の花が咲く頃になると心穏やかではない。あそこのあの花は大丈夫だろうか…と。 それにしても、掘っていった人は、それをどうしようというのだろうか。やはり自分の庭に植えるのだろうか。 最近、○○ファーストという言葉をよく聞く。“アメリカファースト”“都民ファースト”“フランスファースト”…。極端かもしれないが、「自分のところが第一」ということをひっくり返せば、自分のところがよければ、他はどうでもいい…、ということにつながりかねないように思えてくる。ナショナリズムがちらちら見え隠れしている眉唾ものの言葉。 ササバギンランを掘っていった人の脳内にあるのは“自分ファースト”か。自分の庭さえよければ周りの環境はどうでもいい。いつしか、野生にあるものはすべて消えていっても、それは関知するところではない… という感覚。 どうも共感することのできない感覚だ。人の手によって庭に植えられたササバギンランなど何のありがたみも感じない。クルマに踏みつぶされそうな道端でも、殺風景な場所でも、自分の力でそこに芽を出してきたササバギンランの方が遙かに尊いものに思える。 道端にたった一株残されたササバギンランが悲しい風に揺れている。ここ数年楽しみにしていた道端に咲き競う姿はもう来年は見られないのだ。 |
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