2017年3月
タットル・ジャコビニ・クレサーク彗星




タットル・ジャコビニ・クレサーク彗星 41P/Tuttle-Giacobini-Kresak
2017.3.22.  榛名山西麓



 東京で桜の開花宣言があった日、榛名山麓には冷たい雪が降った。春先の雪は、真冬の乾いたような軽い雪と違って重く、いっそう冷たさを感じさせる。
 雪のあがった後は一般的に透明度の高い晴天となることが多く、この雪の後にもそんな期待を持って天気の回復を待った。北天の見やすい位置に「タットル・ジャコビニ・クレサーク彗星 41P/Tuttle-Giacobini-Kresak」がやって来ていたのだ。
 彗星の名前は発見者の名前が発見順に3人まで付く− と、数ヶ月前、「本田・ムルコス・パデュサコバ彗星」について書いたときに述べた。
 「本田・ムルコス・パディサコバ彗星」は昭和の空気の漂う“懐かしい”彗星だったが、今度の「タットル・ジャコビニ・クレサーク彗星」はさらに昔の“レジェンド”達の名前が並んだ歴史を感じさせる彗星である。
 「タットル」は、1837年生まれのアメリカの天文学者・ホレース・タットル。しし座流星群の母彗星の「テンペル・タットル彗星」、ペルセウス座流星群の母彗星とされる「スイフト・タットル彗星」等の発見で、少し彗星や流星のことを知っている人ならば馴染みの名前だ。残されているモノクロの肖像写真はいかにも歴史を感じさせる。
 「ジャコビニ」はホレース・タットルよりも36年後に生まれたフランスの天文学者であるミッシェル・ジャコビニ。「ジャコビニ流星群」の母彗星・「ジャコビニ・ツィンナー彗星」の発見者として、一般の人にはタットルよりも認識されているかもしれない。
 「クレサーク」はスロバキアの天文学者・ルボール・クレサーク。3人の中では唯一、昭和の時代に活躍した人である。クレサークも2つの彗星に名前を残している。そして、ツングースカ爆発の原因がエンケ彗星の破片の落下だったとする説を発表したことでも知られている。
 ところで、こんなに生きていた時代が離れている人たちなので“発見順に3人”のルールはこの彗星には合致していない。
 最初にタットルが発見したのは1858年。このとき、まだジャコビニもクレサークも生まれてはいない。次にこの彗星が見つかったのはその49年後の1907年。ジャコビニが一度見失われた彗星を再発見したのだ。このとき、タットルは存命していたが、クレサークはまだ生まれてはいない。そして、さらに44年後に再び見失われた彗星をクレサークが再々発見したとき、すでにタットルもジャコビニもこの世にはいなかった。実に長い時間の末に完成された名前なのだ。

 雪の後、期待通りの透明度の高い夜空が訪れた。満を持して望遠鏡の小屋のスライディングルーフを開けようと、防寒具に身を固めて外へ出た。望遠鏡は手作りの小屋の中に極軸をセットした状態で据え付け、その屋根がスライドして開くようにしてある。
 ところが、少しして気がついた。屋根に雪がある!楽に開けられるようにと、なるべく軽く作った屋根は雪に弱く、たくさんの雪が積もったときなどは雪下ろしが欠かせない。そして、少しでも屋根に雪があると、その重みでレールの上を屋根は動いてくれなくなるのである。
 雪はそれほど多くはない。もしかしたら、頑張れば動くかもしれない…?
 ダメもとで、フックをはずし、屋根を押してみた。
 普段なら片手で軽く動く屋根は、とても片手では動く気配はなかった。両手で力一杯押して、かろうじてレールの上を屋根が動き始めた。だが、それも50cmほど動いたところで、全く動かなくなってしまった。硬いものに衝突したという感じではない。何か軟らかいものに乗り上げたような感じだった。
 屋根の様子をのぞいてみると原因がわかった。屋根の動くレールに雪が積もっていたのだ。かろうじて動いた50cmほどは屋根の下になっていたためにレールに雪が積もっていなかった部分だ。これは、雪を落とさなければならない…!
 長靴にはき替え、雪かき用のプラスチックのスコップを持って、屋根の上に登った。頭の上には期待通りの満天の星が広がっている。だが、呑気にここで星を見ている場合ではない。長靴で上がった雪の屋根の上はツルツルの状態である。夜の闇の中でここから落ちても誰も助けには来てくれない。
 雪かきにかかった時間がどれほどだったのかよくわからない。緊張しながら慎重にやっていたのでものすごく長い時間がかかったような気がするけれども、実際にはそれ程の時間ではなかったのかもしれない。少なくとも、星の位置はほとんど変わったようには見えなかった。

 屋根が開くと、タットル・ジャコビニ・クレサーク彗星はすぐに難なく見つかった。彗星というと、夕方や明け方に、捉えられるか、あるいは捉える前に地平線に没するか、あるいは捉える前に陽が昇るか、という時間との戦いが普通なのだが、北天に回ったこの彗星は時間を気にする必要は全くなかった。
 カメラのモニターに映し出された彗星は、はっきりとした尾こそ判らなかったけれど、核の周りには拡散した光が見えていた。
 彗星は、同じ彗星であっても、太陽に近づいたときと、離れたときではまったく異なった姿になる。そして、そのときの地球と彗星と太陽の位置関係によっても見える姿は違う。基本的に尾は太陽と反対の方向に伸びるから、深夜の空にある彗星に長い尾はあまり期待できないのだ。
 1858年、タットルが発見したときにはどんな姿を見せていたのだろうか。あるいは、1907年、ジャコビニが見たこの彗星の姿は…?そして、クレサークが見たのは…?
 公転周期は5.4年というから、5年に一度は見るチャンスがあることになる。だが、前回の接近のときには誰も見つけることはできなかったという。地球上でこの彗星を確認したのはその前の接近の2006年が最後だった。
 159年前、初めて人類が認識したこの彗星を、これまでに何人の人が見たことだろうか。
 長い尾があるわけでもなく、特に明るいわけでもない平凡な今回の彗星だが、そのレジェンド達の名前と、発見・再発見の歴史がその姿以上のものに見せていた。





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