2017年11月
その後の笑うカメムシ


 今年の秋、“笑うカメムシ”ことアカスジキンカメムシの幼虫が榛名山麓のあちらこちらにたくさん出現した、ということを書いた。
 その後、あまりにその“笑い顔”がユニークだったので、他の人にも見てもらおうと職場へ2頭の幼虫を連れて行って、見せ物にしたものだ。たいてい、珍しいものでも一通り見せ物にしてしまえば、もうそれは用無しとなって、無罪放免か、標本となるのだが、この2頭は少し違った。
 幼虫で越冬するはずだから、このまましばらく置いておいて、来年の初夏のころ成虫になるのを見てみようか…、と気の長いことを考えたのである。それには、「アミノ酸の入ったスポーツ飲料を与えておけば育つ」というような情報があったからで、難しいことは全くなさそうだった。
 直径6.5cmほどの丸い小さなプラスチック製の透明な標本ケースが彼らの居場所となった。職場の机の上にこれを置いて、ときどきスポーツ飲料の「アクエリアス」を染みこませたテッシュペーパーを丸めてこの中に置いておく。すると、直ぐにこの湿ったテッシュペーパーにしがみついて、アクエリアスを吸い始めるのだった。一度しがみついたもう離れようとしない。そこで、こんなテッシュペーパーを2つ、それぞれの分として入れておくこととなった。
 連休となって職場へ行かない日が3日間続いても、彼らは何事もなくすごした。狭い33cm2 の標本ケースの中でテッシュペーパーにしがみついて、じっとしたままそこにいる。想像以上にタフな奴らだ。
 異変が起こったのは10月の終わりだった。休み明けの月曜日。幼虫たちの様子を見てみると、なぜか3頭になっている。
 さては、Sさんが何やら採ってきて入れたか…?と思って、よく見ると、なんと緑色をしたアカスジキンカメムシの成虫がいるではないか。3頭いると思ったが、1つは脱皮した殻だった。休み中に羽化してしまったのだった。落ち着いてみると、成虫となった個体の体半分はまだ緑色になりきっていない。まだ羽化してからそれほどの時間が経っていないのかもしれない。
 そして、もう1頭も11月の、やはり連休明けに緑色の美しい成虫となってしまっていた。
 

成虫となってしまった2頭 
丸めたテッシュペーパーにしがみついているのは幼虫の抜け殻

 アカスジキンカメムシは幼虫で越冬するはずではなかったのか…?来年6月ころまでのはずだった長期計画(?)はわずか3ヶ月で終わってしまった。
 昆虫が脱皮したり、変態したりするのはホルモンが関係しているということが判っている。カイコでよく調べられているが、頭部のアラタ体とよばれる部分から分泌される「幼若ホルモン」と胸部から分泌される「エクジステロイド(前胸腺ホルモン)」が幼虫の脱皮や蛹化・羽化に関係しているという。幼若ホルモンはそのままの姿・状態を保ち続けようとするホルモンで、エクジステロイドは姿を変化させようとするホルモンである。この2つのホルモンが働いているときには、姿を変えずにただ脱皮するだけだが、幼若ホルモンの分泌が少なくなり、エクジステロイドのみが働くと、姿を変えた脱皮となる。と、かつては高校の生物の教科書にもこんなことが書いてあった。
 さらに最近の研究では、幼虫からサナギになるときには幼若ホルモンがいきなり成虫になってしまうのを押さえる働きがあるらしいことが判ってきているようだ。おそらく、カメムシも同様なホルモンが関係しているのだろう。
 では、どうしてこの時期に“笑うカメムシ”は「羽化せよ」のホルモン状態になってしまったのだろか。
 変態を促すエクジステロイドの合成を促すのはまた別の「前胸腺刺激ホルモン」というホルモンで、脳神経細胞から分泌されるのだという。最終的にはカメムシの脳が状況を判断して変態を決めるらしい、とされる。
 では、その「羽化するべき」の状況判断の要素とは何なのか。
 カメムシは不完全変態をする昆虫だから、蛹の期間はなく、終齢幼虫から成虫へ変わる。成虫になるということは生殖能力を持つということになるのだが、その準備が幼虫の姿の殻の下で着実に行われ、準備が整ったということが最低条件だろう。エサとしたアクエリアスのアミノ酸をたっぷり吸い込んで、成虫の体は作りあげられた。そして、羽化のきっかけとして考えられるのは温度と光である。室内の暖かい環境に置かれてしまったので羽化してしまった…と思いつくが、実は温度よりも光の方が引き金になるようだ。植物も開花に日照時間が大きく影響することがよく知られている。夜遅くまで明るい照明のもとに置かれてしまった“笑うカメムシ”たちの脳は、「時期が来た」と勘違いしてしまったのかもしれない。

 気がつけば、9月、10月と榛名山麓のあちこちで見かけた“笑うカメムシ”たちの姿はもうどこにも見えなくなった。これからやってくる厳しい季節を迎えるために、それぞれ安全地帯に逃げ込んだのだろう。彼らがもう一度姿を現すのは来年の初夏ころだ。そのときにはもう笑ってはいない緑色の姿である。
 幼虫越冬のシステムで命を繋いでいるこのカメムシに成虫の姿で越冬する耐性はあるのだろうか。通常、アカスジキンカメムシの産卵は夏の終わり。そして、秋に幼虫が成長し、そのままの姿で冬を越す。この時期に成虫になって、仮に産卵ができたとしても幼虫たちが育つためのエネルギー源はたぶん無い。彼らが次の世代へ命を繋ぐことができるとすれば、成虫のままで冬を乗り越え、幼虫たちの食べ物がある季節に合わせて産卵するしかなさそうだ。自然界のものたちは、生まれてくるときを間違えてしまうと致命的である。
 生き急いでしまった2頭のカメムシには申し訳ないが、狭い標本ケースの中でアクエリアスでも吸ってもらって、天寿をまっとうするのを見届けさせてもらうことにしようか。


    − 2017年11月21日追記 −
 成虫となった2頭は、1頭が11月14日に、別のもう1頭が11月20日に死んでしまいました。
 やはりこの時期に成虫になったものは長く生きられないのでしょうか。




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