2016年9月

直売所に現れたカモシカ




2016.9.25.   高崎市倉渕町


 

 「直売所にカモシカの子供が入り込んでいるんだけれど… 」
 朝のNさんからの電話は驚きの内容だった。Nさんが朝収穫したその日の売り物を持って、野菜の直売所へ行ってみると、そこには先にカモシカの子供が入り込んでいて、逃げもせず居座っているのだという。

 「写真を撮るのだったらまだいるかもしれないよ。」

 野生動物が逃げもせずそこでじっと待っているというのも、なんとものんびりした話だが、冬の頃、自宅の裏にときどき来ていたフクロウもそんなものだったから、そんなこともあるのかもしれない。
 誘われるまま、ダメモトと思ってカメラを持って自動車に乗り込んだ。
 Nさんの直売所は国道406号沿いにある。東吾妻町から高崎市倉渕町へ向かって走ると、倉渕温泉からさらに
130mほど下った、沢が流れ下ってくる左側の涼しい場所である。ここでトウモロコシの収穫できる夏の間だけ季節営業をしている。榛名山西麓のトウモロコシはとても甘くて、Nさんの直売所は店が開いているときにはいつもクルマが止まっているものである。
 直売所の脇にノロノロと自動車を進めていくと、屋根の下にはNさんをはじめとする直売所の面々の笑い顔があった。この直売所はNさん夫婦が経営しているのだけれど、Nさんの娘夫婦も休みの日などは手伝いに来ていて、いつも賑やかだ。ちょうどこの日も休日とあって、直売所にはフルメンバー4人がそろっていた。

 自動車から降りてお店に近づいていく。カモシカがいる… というにしては、いつもと変わらない雰囲気で、いつもの直売所である。さすがにもう逃げてしまったか…。

 そう思ったのは一瞬だった。さらに近づいて直売所をよく見渡せば、その奥に黒い毛むくじゃらの姿がじっとしているではないか。まるで、直売所のペットのようである。そういえば、数年前には罠にかかったうり坊を直売所のマスコット代わりにしていたこともあったっけ…。

 近づいたら逃げるだろうか…?

 ゆっくり近づこうとしていると、Nさんたちはそんなことはお構いなしにいつもの調子で賑やかにおどけている。まったく、動かなくて困っちゃうよ…。なんて言いながらも、少しも困った様子はない。
 さらに、ジワジワと近づく。そして、直売所の屋根の下まで入った。すると、カモシカは少し動揺したようで、ちょっと身じろぎをしてみせた。だが、やはりその場から離れるわけでもない。距離は2mもなかった。
そして、さらにジワジワと間合いを詰めていくと、ついに手を伸ばせば届きそうなところにまで来てしまった。その間、じっとこちらを見つめている。
 よく見れば、全身の黒い毛にはビッシリと草の実が着いていた。緑色の小さな実はイノコヅチだろうか。その他にも数種類の草の実が黒い毛にまとわりつくようにしてくっついていた。この季節、山の中は秋の草の“ひっつき虫”でいっぱいだ。

 この“ひっつき虫”の様子を見ると、このカモシカは沢筋を降りてきたのだろうか。毎日のように降り続く雨の中、この子は疲れてはててここまでたどり着いたようにも見えた。

 カモシカの年齢は角に刻まれた年輪のような模様で判断することができる。カモシカの角はシカのように抜け落ちることはなく、頭骨から生えてきて、死ぬまで成長し続ける角である。暖かい季節にはよく成長し、寒い時期には食べ物も少なく代謝も良くないのであまり成長しない。この成長の記録が角の根元に縞模様として記録されているのだ。まさに年輪である。(正しくは「角輪」という名前がついているらしい。)だからこの縞模様が何本あるかを数えれば年齢を推定することができるということになる。

 あたらめて角を見てみると…、あれ…?縞模様があるではないか。それも1本や2本ではなく、少なくとも6本は筋が見える。…ということは、7歳以上の立派な成獣である。
 電話で「カモシカの子供」と聞いたときからすでに先入観でカモシカの子供と思いこんでしまい、実物を見ても、それほど大きくもなく、迫力もなかったので、すっかり子供だと思ってしまっていたのだが…。
 大町山岳博物館編「カモシカ 氷河期を生きた動物」信濃毎日新聞社(平成3年)によると、カモシカの体重は
3040kg、体高(肩の高さ)は7080cmとあるから、意外に小さい。直売所のカモシカもこんなものだろう。野外で遠くの個体を見るときにはもっと大きく見えるものだが、何かが錯覚させるのかもしれない。
 角に刻まれた角輪は、年齢だけではなく、性別も教えてくれる。妊娠・出産をすると母体の成長が鈍るので、角輪の間隔も狭くなる。したがって、角輪が均等に刻まれていなくて、間隔が狭い部分がある角を持ったのは出産をしたことのあるメスということになるし、きれいに等間隔に刻まれた角輪を持ったものはオスか、妊娠したことのないメスという推測ができるというのだ。

  直売所に居座ったカモシカの角の角輪の間隔は…、見る限りそんな間隔に不規則な部分は無いように見える。とすれば、これはオスか。
 さらによく見れば右脇腹には傷跡が見えた。ケガをしていたのだ。

 カモシカの繁殖期は秋。そして、そんな時期にオスが傷を負っているとすれば、なわばり争い、あるいはメスをめぐっての争いがすぐに頭に浮かぶ。

 カモシカの子供が道に迷って直売所に迷い込んだ、というのではなく、ライバルとの争いの末に傷ついたオスが、沢筋に逃げ下ってきたというのがより真相に近いだろうか。カモシカの子供の店番… というほのぼのとした話とは全く違った、厳しい自然の一面だったのかもしれない。

 しばらくして、カモシカは直売所の脇を流れる沢を登って山へ帰って行った。つかの間の休息を終えた彼は、再び厳しい自然の現実の中へ戻って行ったようだ。

 







TOPへ戻る

扉へ戻る