2016年4月
ハシリドコロ




ハシリドコロ  Scopolia japonica



 春の明るい陽射しのある日、榛名山麓を流れ下る小さな渓流を遡行してみた。渓流釣りができるほどの水はなく、流水は跨いで渡れるほどの小さな沢である。
 春の渓流は多くの植物がまだ芽生えの時期。花をつけているのはスミレの仲間やネコノメソウの仲間などで、地面すれすれのところで花をつけているだけなので、沢は明るくて見通しが良い。
 歩きやすいそんな渓流を少しばかり登っていくと、岸辺にハシリドコロの花があった。他の植物たちが小さな姿で花をつけているのに、ハシリドコロは地面から30cmにもなろうかというくらいの大きな株になっていて、いくつもの赤紫の筒状の花を緑色の柔らかそうな葉の下につけているのだった。
 ハシリドコロは毒草として有名な植物である。食べたらその毒のために走りまわるので、その名前がついたとか。別名「キチガイナスビ」。実際には、嘔吐、下痢、血便、瞳孔拡大、めまい、そして幻覚と異常興奮などの症状があって、最悪の場合は死に至ることもあるらしい。毒性分はアルカロイドの一種で、植物全体に含まれていて、毒を持つ植物の多くがそうであるように根と茎に特に多く、その最大の働きは副交感神経を麻痺させることにあるという。
 そして、例にもれず毒はまた薬にもなる。江戸時代の博物学・医学者であるシーボルトが、目薬として瞳孔を開けるのにベラドンナ(セイヨウハシリドコロ)の代わりのものとして利用できることに気がついたとされる。日本薬局方にもリストされている「ロートコン」という薬はこんな歴史を持っている。
 そして、現在の社会でこのハシリドコロから作られる薬は思わぬところでも使われていた。
 1994年の松本サリン事件。そして1995年の地下鉄サリン事件。オウム真理教が起こした無差別テロとしてあまりにも有名な事件である。「サリン」の名はこの2つの事件で一躍有名な毒ガスとして人々に認知されたといってもいい。
 サリンという毒ガスは神経毒である。体に入ると、神経伝達物質であるアセチルコリンを分解するアセチルコリンエステラーゼという酵素の活性を失わせ、その結果としてアセチルコリンが体内にたまるようなって瞳孔の縮小、筋肉の痙攣、貧脈等が引き起こされ、死に至るという。
 アセチルコリンの働きに対して拮抗的に働く化学物質に「硫酸アトロピン」という物質がある。この物質によってサリンを解毒することはできないが、体内にたまったアセチルコリンの働きと反対の働きを高めることによって、症状を和らげることができるというわけだ。実際に、サリン事件ではこの硫酸アトロピンが治療に使われたという。まさに「毒をもって毒を制する」である。ハシリドコロはこの硫酸アトロピンの原料となるのだそうだ。
 春の渓流の岸辺に、まるで都会の喧噪とはかけ離れたようにあるハシリドコロだが、その内に秘めた毒は人間社会ともとても深いつながりを持っているのだった。そののどかな風景とハシリドコロの持っている社会との関わりはあまり似つかわしくない。いち早く春の渓流に姿を現した毒草は、夏が来るころには地上部は枯れ、それがどこにあったのかさえ判らなくなっていることだろう。





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