2016年4月
電力自由化




昔の小学校の跡に置かれたソーラーパネル     高崎市相満



 2016年4月。世間では電力の自由化が始まったらしい。
 それまでは居住地域によって使用する電力会社が決まっていたのだが、これからは自由に家庭ごとに電力会社を選べるのだという。電力の世界でも販売競争が始まった。

 2011年の大震災以降、いつの間にか榛名山麓にも太陽光発電のパネルが並べられている場所が増えてきた。空き地だった場所が気がつけばパネルで覆われているのである。
 震災の直後から「原子力は危ない!」という声はよく聞かれるようになった。福島第一原発の事故以来、広範囲にばらまかれた放射性物質の後始末は終わっていないし、原発の廃炉作業、そして汚染水の処理も前途多難な様相を示している。
 一度起きてしまった原子力の事故は今の人類では対処しきれないように思える。広範囲に拡散した放射性物質を元に戻すことも不可能だ。一度壊れたら自らコントロールできないようなものを安定したエネルギー源として利用することは未来の地球環境のためにもやるべきではない… そう考える人はおそらく多かった。
 そうかといって、石油や石炭を燃やす火力発電では地球温暖化の原因とされる二酸化炭素の排出の問題や枯渇する資源の問題がある。
 水力発電は位置エネルギーを電気エネルギーに変換するシステムで有害物質は出さないけれど、ダムそのものが生態系に及ぼす影響は少なからずある。今はそれほど表面には現れてこないが原発の事故以前、ダム建設と生態系の保全は重い問題だった。
 そんなことから、再生可能エネルギーの太陽光発電が一躍注目を集めることとなった。そして、それに期待するところもあった。
 ところが…。
 当たり前だが、太陽光発電では太陽光を受け止める場所が必要となる。その結果、陽当たりの良い空き地はソーラーパネルが占拠することとなってきた。そして、それでも足りないとばかりに雑木林が切り開かれ、山の斜面にまでそれは広がってきた。捨て置かれていた林は一転してお金を稼げる場所として価値を持ち始めた。

 頭の良いらしい多くの人たちは経済を第一に考えているように見える。原発だって単価の安い発電が売りの1つだった。林の利用価値はその林(とその土地)がどれだけのお金を稼ぎ出せるか、ということに判断基準が置かれて、生態系のことなど考えもしない。
 人類の次世代のエネルギーとして期待した太陽光発電だが、これまでかろうじて残されていた貴重な平野部の樹木をなぎ倒し、さらに山の斜面の自然まで壊そうとしている。
 経済至上主義のヒトという種が地球上で生息していく限りこんなことが繰り返されていくのだろうか。
 生物にとって、太陽からのエネルギーは根本的なエネルギーに他ならない。我々が日々食べてエネルギーとしている野菜や肉は、元をたどっていけば最終的に植物が光合成という形で太陽光を利用して作り出しているエネルギーにたどり着く。風力発電も波力発電もそのおおもとは太陽の光エネルギーがもたらす熱にまで原因をたどれるし、火力発電の石油・石炭という化石燃料は過去の生物が太陽エネルギーを利用して作り出した有機物である。
 こうして考えてみると、人類が生きていくためのエネルギーを直接太陽エネルギーに依存するというのは正しい選択のように思える。
 だが…。
 我々が生きていくために、何を選択すればいいのか。
 今のところ、正しい選択肢が見あたらない。





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