2016年12月
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本田・ムルコス・パデュサコバ彗星(45P/Honda-Mrkos-Pajdusakova) 撮影 2016年12月30日 榛名山西麓 |
暮れも押し詰まった12月下旬、夕刻の西の低空に「本田・ムルコス・パデュサコバ彗星(45P/Honda-Mrkos-Pajdusakova )」を捉えた。 予報として公表されている明るさは6等級ほどだが、望遠鏡でのぞいても肉眼ではその存在はわからない。彗星があるべき位置に望遠鏡を向けて撮影すると、彗星特有の緑色の核とかすかな尾が写ってきたのだった。 西空で太陽に近い位置にある彗星の姿を捉えるのは、まだ空に明るさが残る時刻が勝負だ。夜の闇がはじまり空に星が見え始めると、その見えてきた明るい星を頼りに彗星のあるべき位置へ望遠鏡を向けていく。時には赤道儀についている目盛環を使って望遠鏡を振るときもある。ここでスムーズに捉えられないと、彗星はたちまち地平線下へ沈んでいってしまうことになる。夕方の西空にしろ、明け方の東の空にしても、太陽に近い彗星を捉えるのは時間との勝負なのである。 ところで、彗星の名前には発見者の名前がつけられるというきまりがある。新彗星の存在が公表される前に独立発見した3人の名前が、発見順に並べてられて彗星の名前となるのだ。 よく「星を見つけて自分の名前を付ける」などと冗談のように話す人がいるが、自らの発見で名前が残せるとしたら彗星以外にはおそらくない。アマチュアが発見する可能性のある天体には彗星の他に小惑星や新星や超新星があるけれど、新星や超新星には数字とアルファベットで表される記号が付けられるだけで固有名詞の名前は付かない。小惑星の場合は基本的に発見者に命名権が与えられるが、その命名規約には発見者の名前は付けないという約束があるから、誰かに命名してもらうことはあっても、自らが自分の名前をつけることはできないのだ。 「本田・ムルコス・パデュサコバ彗星」が発見されたのは1948年のこと。 「本田」は倉敷天文台の台長を長く務めた本田實さん。“コメットハンター”の先駆け的な存在で、日本の彗星発見者のことを語る上で欠かせない人物だ。生涯で発見した彗星は12個。「本田・ムルコス・パデュサコバ彗星」は本田さんが5番目に発見した彗星である。 「ムルコス」はチェコの天文学者であるアントニーン・ムルコス。「バデュサコバ」はスロバキアの女性天文学者・リュドミラ・パデュサコバ(リュドミラ・パインドゥシャーコヴァ)である。3人ともすでにこの世にはいない。 現在、アマチュアが彗星や小惑星を発見するチャンスはとても少なくなってしまった。LINEAR、NEAT、Spacewatch、LONEOS、Catalina、等の国家規模の自動捜索プロジェクトによって、夜空の大部分が自動的にパトロールされ、現れた新天体はとても暗いうちから早々と発見されてしまうのである。そう考えると、昭和の時代はコメットハンターたちが“星に自分の名前を付ける”と夢を見られた良い時代だった。 彗星の軌道には楕円軌道のものと双曲線軌道のものがある。いずれもその焦点には太陽があるのだが、双曲線軌道の彗星は一度太陽に近づいたら、もう二度と戻ってこない。楕円軌道の彗星だけが何度も見られる周期彗星だ。76年ごとに帰ってくるハレー彗星が周期彗星としては有名だが、二度と見られない彗星の方がはるかに多い。本田さんが発見した12個の彗星の中で、周期彗星はこの「本田・ムルコス・パデュサコバ彗星」だけである。 今、夜空には自動探索プロジェクト(スカイサーベイ)によって見つけられた同じような名前の彗星がいくつもある。そんな中にあって、“昔の名前”の周期彗星は何か特別な存在に思えてくる。昭和の不思議な時間を感じてしまうのだ。 本田・ムルコス・パデュサコバ彗星が発見された1948年からは68年という年月が経過した。この彗星の周期は5.252年と計算されているから、今回は発見から13回目の太陽接近となるのだろう。 “汚れた雪だるま”に例えられる彗星は、太陽に接近するとその熱のために溶けて、太陽風に吹かれて宇宙空間に尾を伸ばす。彗星は太陽に近づくたびに少しずつ身を削っていくのだ。いつの日かこの彗星も揮発成分をすべて宇宙空間に放出し、小惑星のように変わっていくことだろう。 周期彗星は、また、そんな宿命も背負っている。 |
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