2015年7月
くろぼく




榛名山麓の雑木林の下から現れた黒い土  2003.7.25.
地表付近に水平に見えている茶色の層は浅間山からの軽石の層



 「日本の土 地質学が明かす黒土と縄文文化」という本に出会った。
 築地書館から今年の2月に出版されたばかりで、そう多くの人が興味を持つとは思えない土壌について書かれた本である。略歴を見ると筆者の山野井徹氏は元山形大学の教授で、現在は山形大学名誉教授、東北大学総合学術博物館協力研究員という肩書きを持っている。専門分野は層位学・古生物学(花粉分析)・応用地質学、と書かれているから地質学者である。

 榛名山西麓に土地を見つけ、そこに家を造ろうとしたとき、基礎工事をするために表土が剥がされると、軽石の混じった異様に黒い地面が現れてきた。そして、あたりの様子を見てみると、家を造ろうとした場所だけではなく、この山麓一帯の地表がこんな黒い表土に覆われているのがわかった。家が完成して、益子町から猫と犬を連れて越してきたとき、猫と犬はまだむき出しの黒い土にまみれて、いつも薄黒く汚れた姿になっていたものである。
 一般に崖で地層として見える地面の断面にはその最上部に黒い土が見えることがよくある。それは地面に生えていた植物が枯れて、あるいは落葉として、地面に積み重なって分解されてできた有機物として理解していた。ローム層の中にも少し黒い部分があると、それは昔の植物が長い期間生えていた地表面だったと想像するのである。
 だが、この黒い土は栄養をたっぷりと含んで黒いというわけでもなさそうだった。家の前に作られた家庭菜園の野菜達は日光が足りないというだけではなく、肥料なしではとても貧相なものしか育たなかった。それでも、この土の黒さは栄養がたくさん含まれているような錯覚を与えるようで、家庭菜園に使いたいから少し土をもらいたい…という人もいたくらいである。持って行ったあの土は期待通りの働きをしたのだろうか…?
 この黒い土を少し掘ると、硬い軽石層にあたる。あとからわかったことだが、これは浅間山から降ってきた軽石である。軽石は層を作っているだけではなく、黒い土の中に散在していた。硬い軽石だけではなく、オレンジ色の壊れやすい軽石もあった。そんなこともあって、この黒い土の成因には浅間山が絡んでいるのではないかと、なんとなく思っていたのだった。
 榛名山麓にあるこの異様に黒い土の中からは縄文時代の遺物が見つかる。畑の中から土器や石器が出てきたという話は何度か聞いた。近くの畑で出てきたという縄文中期の石棒もおそらくこの黒い土の中である。
 群馬県富岡市から出土した遺跡の遺物についての講演会があったとき、その講演者に尋ねてみると「縄文時代の遺物は黒土の中から、旧石器時代の遺物はローム層の中から見つかる。」という答えをもらった。考古学の世界では、黒土は縄文時代、赤土は旧石器時代、が常識なのだろう。
 日本の縄文時代は今から約1万6500年前から、旧石器時代はそれ以前とされる。気候的には最終氷期であるウルム氷期の終わりが1万5000年前とされているから、大雑把に旧石器時代は氷河期、縄文時代は後氷期(間氷期)の温暖な時期である。赤土は氷河期のような寒冷な時期に、黒土は温暖な時期に形成されたということになる。寒冷な時期には植物遺体が分解されずに黒色土が形成されない、という説明も見たことがある。この気温の差は黒色土の形成に何らかの関係があるのだろう。
 ローム層の上にのる黒色土には「クロボク土」という名称がついていることをしばらくして知った。「クロボク土」というのは土壌学での名称とのことで、耕すと黒いボクボクとした柔らかい土になることから「クロボク」なのだそうである。“ボクボク”というのがあまり馴染みのない表現なのだが、なんとなくわかる気もする。
 それにしても榛名山麓にあるクロボク土の厚さは特筆すべきものがある。場所にもよるが、厚さは1m近くにもなることもある。
 この土と砂を混ぜ合わせたものがグランドの土に良いとかで、野球のグランドに撒くために売られていたりもしている。山麓の一角にもそんなような場所があって、黒い部分だけが掘られ、その下からは赤いローム層や黄色い軽石層が顔を出している。山肌が無惨に露出したままになってしまっているそんな場所は何か痛々しい。

 このクロボク土はどのようにしてできたのか。単に植物体が分解されて腐植となった結果なのか…。榛名山麓に広く分布しているこの黒い土を見たときから持っていた素朴な疑問に対するひとつの答がこの「日本の土」の中にあった。
 山野井徹氏はこの本の中で、「クロボク土とは微粒炭を一定の高密度で含み、多量の腐植の含有により黒色化した乾陸土の表土」と定義している。微粒炭とは植物の燃焼炭の粉である。
 これまで、クロボク土は火山灰の中に含まれる活性アルミナや粘土鉱物のアロフェンなどと腐植が結びついたものであるという説があった。
 これに対して山野井氏は、クロボク土の中にイネ科の植物を燃やしてできたと推定される多量の燃焼炭を見い出し、これと腐植が結びついたと考えた。そして、母材は必ずしも火山灰には限らないと考え、いくつかの実験と考察を経て、塵や火山灰や大陸から飛んでくる黄土などのいろいろなものを母材として、そこに縄文人が燃やした大量の植物の炭が結びついた結果、クロボク土は形成された、と結論づけている。
 住み場としての草原を保つため、そして、芽吹く山菜などの食料を確保するために、縄文人達はいろいろな場所で野焼きや山焼きを継続的に繰り返していた、と推測しているのだ。クロボク土は縄文人がそこに存在することで形成された土壌なのだと。

 山麓に広がる厚い黒い層と縄文人 −
 思わぬところでその両者が結びついた。
 あの厚い黒い土は縄文人の野焼きが原因で形成されたとは。壮大な仮説である。黒い土の中から出てくる縄文人の遺物は出るべくして出てくるということか。山麓に厚く積もるクロボク土は縄文人の豊かな暮らしを象徴しているかのようである。
 氷河期の終わり。放っておけば森林になっていく土地で、迫り来る植物とずっと戦いながら生きてきた縄文人たち。そして、それはまた人類が自然に対して行った最初の働きかけだったのかもしれない。
 山麓の厚く積もった黒い土はその悠久の時間を示している。





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