2015年4月
春の蛾をさがせ



糖蜜にやってきたホシオビキリガ(上)とホソバキリガ(下)


 冬の蛾がフユシャクであるならば、春の蛾の代表はキリガの仲間だ。
 キリガの仲間は、フユシャクのひらひらとした繊細な姿に比べると、どっしりとした重量感を感じさせる。翅を後方で重ね合わせるようにしてとまる姿はいかにも蛾で、蝶の仲間かと間違えそうになるフユシャクとはその印象がまるで違って見える。
 キリガの仲間は1000種類以上はいるとされるヤガ科の一群で、ヨトウガなども同じ仲間になる。春に姿が見られるのは、秋に成虫になり越冬するものと、早春に出現する種類があるが、いずれにしても、雑木林にまだ昆虫たちが動き出す前から姿を現すので、少し昆虫に目が行く人ならばその存在に気付く人もいることだろう。
 
 3月も終わりのころのこと。
 雑木林の縁に立っていると、頭の上に何かが落ちてきて、髪の毛にくっついたようだった。軽い小さなもの。落葉かと思ったが、木々の葉はすでにすっかりと落ちきっている。そっと手で触れてみると、その手にそれは載ってきた。赤茶色の蛾だ。キリガの仲間である。 
 もしかすると、林には春のキリガたちがたくさん飛び回っているのかもしれない…。頭の上に落ちてきたキリガが想像をかき立てた。
 しかし、それをきっかけにカメラを片手に雑木林の中に踏み込んでみたのだが、期待に反して、やはり蛾は見つからなかった。フユシャク同様、春の蛾も見ようしても簡単には見えないものらしい。
 だが、冬のフユシャクを探すのにはひたすら探し歩いたのだけれど、春のキリガは呼び寄せるという手段がある。
 フユシャクは成虫になると、もう何も口にしないのだが、キリガの仲間は樹液などを吸ってエネルギーの補給をする。だからフユシャクには通じなかった“エサで釣る”という方法があるのだ。蛾が大好きな蛾屋さんたちはこれを“糖蜜トラップ”とよんでいる。言葉からするとちょっと専門的なもののように錯覚するが、何のことはない、蛾が好きそうな糖蜜を樹木などに塗って、蛾を呼び寄せるという単純なものである。子供の頃、カブトムシやクワガタを捕まえるのに、木に蜜を塗るという方法がよく子供向けの雑誌に載っていたが、あれである。そんな記事を見て、実際にやったこともあるが、必ずしも期待通りの結果になるわけではない、ということはそこで学習済みである。
 トラップに使う糖蜜はいろいろなところで紹介されている。黒砂糖、酢、酒などを煮詰めるなどして作るというのが一般的のようだ。
 雑木林の捜索で成果が出なかったので、方針転換。この糖蜜トラップを試してみることにした。
 トラップに使う糖蜜を作るのは面倒なので、効果のほどはわからないのだが、カブトムシのエサとしてホームセンターで売られている「昆虫ゼリー」を使ってみることにした。 さっそく雑木林の縁にあるコナラやクリの幹にゼリーを塗りつけてみる。糖蜜ゼリーが塗りつけられた一帯には微かに甘い匂いが広がった。雑木林の離れた場所に数カ所に渡ってそんなゼリーを塗り回る。そして、少しして最初に塗ったところに戻ってみると、すでにそこには数匹のハエが集まってきていた。彼らの臭覚というのは本当に大したものだ。いったいどこにいてこの臭いを嗅ぎつけてきたのだろう。この様子では蛾がやってくるのも時間の問題のように思えてきた。
 満を持して日没を待つ。蛾の多くは夜行性だから、暗くならなければ美味しい糖蜜があったところで、現れてはくれない。
 薄明が終わり、あたりが暗闇に包まれ始めた頃、さっそく糖蜜を塗ったコナラのもとへ行ってみた。最初はカミキリムシが産卵のために開けた穴が並んでいる夏の頃ならば樹液をたっぷり出しているコナラである。7月〜8月にかけてはクワガタがやってくる昆虫採集の穴場のような場所なのだが、この季節にはまだ樹液は出ていない。
 ライトの光に1匹の蛾が照らし出された。赤茶色っぽい姿のキリガだった。カシワオビキリガかホシオビキリガのようだ。木の幹を時計回りに光を当てながら見ていくと、同じような大きさのキリガたちが4頭、様々な方向を向いて糖蜜に口をのばしているのが見えた。昼間の雑木林をいくら探しても見あたらなかったキリガ達が目の前に集まっていたのだった。かつてカブトムシやクワガタを集めようとしたトラップがほとんど空振りに終わっていたのに対して、これは大成功といって良いだろう。まだ寒く、ほとんど動くものもない夜の雑木林のそこだけが活気に満ちた空間のように見える。
 次のトラップは、昼間太陽の光が当たっていたため、塗った糖蜜はすっかりカピカピに干からびてしまっていた。それでも、甘い臭いに誘われたのか、同じようなキリガ達が3頭集まってきていた。まだ花の蜜がほとんどない早春の雑木林ではこんな糖蜜はとても貴重品なのだろう。ここにはカシワオビキリガなどよりも一回り大きいイチゴキリガも来ていた。昼間いくらさがしても見つからなかったのが嘘のようである。
 こんな状態は、その翌日も、次の日も、そのまた次の日も…。実に糖蜜を塗ってから6日間にわたって効果を発揮し続けていた。3月に始まった糖蜜作戦は4月にまで持続していたのだ。もちろん糖蜜はすでに液体状態とはほど遠い干からびた状態で、蛾たちが吸うには不可能な様子なのだが、夜露に濡れたりして少しずつ液化していたのだろう。
 蛾が姿を消したのは、糖蜜を塗ってから7日後。雨が糖蜜を流して、すべてが終わった。
 たった1カップの昆虫ゼリーでずいぶんと楽しませてもらったものである。


イチゴキリガ
Orbona fragariae pallidior

キバラモクメキリガ
Xylena formosa

 4月になってどうしたわけか雨が続いた。味をしめて、第二次糖蜜作戦を始めようと待ちかまえていたのたが、天候は思わしくない。たとえ糖蜜を塗っても雨が降ってしまえばそれで終わりだから、一週間近く楽しんだ最初の糖蜜トラップを考えれば、数日は持続させたい。
 少し天候が安定したようにみえたのは4月11日のことだった。今度は干からびてしまうのを避けて、日が落ちる頃を見計らって、前回と同じ木々に同じように糖蜜を塗ってみた。
 …ところが、これが全く蛾たちには受けなかったのである。新鮮なみずみずしい糖蜜だからさぞやたくさんの蛾たちが群れ集っていることだろうと期待して見に出かけたのだが、1頭の蛾もいなかった。いつも数匹の蛾の姿が見られた穴場のコナラも同様だった。いたのは小さなムカデとナメクジとアリだけ。
 数時間後にもう一度、そして寝る前にももう一度。結果は同じだった。1週間前にはあれほど簡単に集まってきていたキリガ達の姿はもう見られなかった。
 思えば、この1週間で早春の花たちが一気に花開いた。昆虫たちが必要とするエネルギー補給地も自然の状態であちこちに開設されたのかもしれない。あるいは、早春の蛾たちのシーズンが終わったのか。
 第二次糖蜜トラップは季節が少しだけ進んだことを教えてくれていた。









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