2015年1月
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地区の恒例のどんど焼きが終わって帰途につこうとしたときのこと。近くに住んでいる農家のNさんから、畑の中から出てきたものがあるので見て欲しいという旨の話を聞いた。ヤマイモをつくっている畑を小型の重機で掘っていたときに出てきた大きな細長い石だという。 土の中から変なものが出てきた− という話は訳もなくワクワクするものである。隣にいた連れ合いも好奇心一杯で聞いている。さっそくそのまま歩いてNさんの自宅へと伺うことにした。 Nさんが見せてくれたのは、確かに大きな長い石だった。円筒形で、一方の先端がこぶのようになっている。片方の先端は欠けていて、この先にも同じようにこぶがあったかどうかはわからない。長さは40〜50cmはあるだろう。石でできた巨大な男性器のような姿である。自然の力でできたものではなく、何らかの人の手が加わった物だろう、という予想はすぐについた。 これと同じようなものは、博物館などで見たことがある。長野県の八ヶ岳山麓の尖石遺跡でも、火炎土器で有名な新潟県馬高遺跡の馬高縄文館でも。新潟県糸魚川市の長者ヶ原考古館にもあったような気がする。身近なところでは、似たものが職場にもあった。それは以前勤務していた考古学が専門の社会の教員が置き忘れていったものだった。 どうも縄文の気配がする。 帰ってから、あずかってきた土で汚れた石を洗ってみると、緑色の岩石が現れてきた。泥を落とす前から見当はついていたが、緑色の結晶片岩だった。結晶片岩は地下深くの高圧の条件下で作られる変成岩である。群馬県でよく見られるのは、県南部の鬼石から下仁田にかけて分布している三波川結晶片岩と呼ばれるもので、この岩石の分布は埼玉県の長瀞や児玉や寄居へと続いている。三波川結晶片岩は榛名山ができる遙か以前の中生代ジュラ紀ころにできたのではないかと考えられている岩石なのである。調べてみると、群馬県で他にこんな岩石があるのは谷川岳の山頂付近に少しと、水上付近に分布している新生代第三紀のレキ岩の中に入っているものくらいのようだ。こちらの岩石は上越変成帯と呼ばれる地質区のもので、やはり榛名山よりも遙かに古い時代の岩石である。 あらためて大きさを測ってみると、全体の長さは500mm。円筒部分の最大径は84.9mm。先端のこぶになっている部分の径は最大78.8mm、最小64.8mmで、断面で見てみると円形ではなく楕円形である。重さは6.0kgもある。 いろいろ資料を見ていくと、やはり縄文時代の遺物の中に似たような物が報告されていた。「石棒」という名前がつけられている磨製石器である。使用目的ははっきりとは分かっていないようだが、実用的な道具というよりも、縄文人の精神文化に関係した土偶と同じように呪術的な性質を持った物ではないかという考え方がされている。その作られた最盛期の時代は縄文中期のようだ。 縄文時代はその土器の様式から、一般的に、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6つに区分される。縄文中期とされるのは今から5000年〜4000年前である。
この石もその縄文中期に作られたものなのだろうか。 翌日、石が出てきたという畑を訪れてみると、黒色土に混じって黄色いローム層も掘り返されているのが見えた。ローム層は縄文中期ではなく、もっと古い時代になる。縄文時代の地層は黒色土の、それもローム層のすぐ上くらいの場所になるはずだ。だが、すっかり掘り返されてしまった畑ではもうそれがどれくらいの深さだったのか推測することもできない。 そして、気になるのは榛名山にありえない結晶片岩という石材である。その場所から結晶片岩が手に入りそうな場所までは少なくとも直線距離で25kmはありそうだ。移動手段は自分の足しか考えられない縄文人が、そこにそんな石材があるという情報を得て、そこから運んできたというのだろうか。 だが、結晶片岩ではないが、縄文中期ころになるとまが玉の材料となるヒスイが新潟県の糸魚川市から青森や北海道にまで運ばれていたことがわかっているという。それを考えれば、25kmという距離は縄文人にとっては何ら問題となるような距離ではないのかもしれない…。 この榛名山の西麓ではこれまでにも畑の中から土器が出たとか、石鏃(石でできた矢尻)が出たとか、貝塚があったとか、あちこちで縄文人がいた形跡の話を聞いてきた。だから、この石が縄文時代の遺物であっても少しもおかしくはないはず…。 たっぷり1週間あまりの間、謎の石棒を前にしていろいろ文献を調べ、その出てきた場所を歩き、あれこれと想像をめぐらせて、推理を積み重ねてみた。1つの謎の石でずいぶんと楽しませてもらったものである。 そして、もうこれ以上の推測はできないというくらい煮詰まってきたところで、その考察を確認すべく、石を持って渋川市北橘町にある群馬県埋蔵文化財調査事業団を訪ねてみた。 うれしいことに、一週間ほどかかってたどり着いた推測と、埋蔵文化財事業団で対応してくれた2人の職員の話はほぼ一致した。 謎の石は紛れもなく石棒で、その時代はおそらく縄文の中期から後期にかけて。結晶片岩でできている石棒もいくつも見つかっていて、この時代にはすでに広い範囲で交易があったと考えられているとのことだった。おそらく、縄文人は我々が考えるよりももっと簡単にこの石棒を作っていたのではないだろうか、と職員の方は付け加えて説明してくれた。我々が考えるよりも縄文人ははるかに現代人に近いようである。縄文人を侮ってはいけない。 最後の氷河期が終わって、縄文の草創期から前期にかけてはどんどんと気候が温暖化していったという。この温暖化によって海水準は今よりもずっと高くなって、縄文前期には海が内陸まで入り込んでいたとされている。そして、中期から後期にかけては、その温暖化の最盛期を過ぎて、再び少しづつ寒冷化の傾向を強めていく時代となる。石棒が作られたのは、こんな時代のはずだ。 石棒が見つかったという南向きの緩傾斜の小高い丘の畑から緩やかに下っていった場所には、烏川に注ぎ込む榛名山から流れ下ってきた沢が流れている。水がすぐに手に入る、日当たりの良い高台は縄文人にとっても、絶好の生活場所だったのだろう。 戦後の開拓で人々がこの地を拓くよりもはるか昔、すでに縄文の人たちはここで生きていた。想像をそれほどたくましくしなくても、その姿は何となく思い描くことができるような気がする。榛名山西麓の広葉樹林は、もしかしたら縄文のころのそれに近いのかもしれない。榛名山の西麓には悠久の時が流れ続けているようである。 |
石棒がみつかった畑
黒色土と黄色のロームが入り混じっている
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