お気に入りの演奏会場から顔をのぞかせたカンタン 2014.9.9. 榛名山西麓 |
ルルルルルルルルルルル… 夏の終わりから今年も庭の草むらからは軽快なカンタンの鳴き音が聞こえている。 夜になると耳に入ってくるこの音の主が判明したのは2009年のことだった。 耳に聞こえてくる音とその音を出している者が結びつくと、頭はしっかりとそれを認識するもので、他の虫が鳴いていてもわからないのに、不思議とカンタンの音だけは脳にまで届いてくることになる。 この季節、注意してイベント情報などを眺めていると、「カンタンの声を聞く会」などという観察会を目にすることがある。カンタンの声というか音は一般的に鑑賞に値するもののようだ。コオロギやキリギリスやスズムシなど、秋の“鳴く虫”にはいろいろなものがあるのに、「秋の虫の声を聞く会」などではなく、あくまでメインの演奏者はカンタンなのだ。 ところが、世間ではカンタン様のありがたい演奏を目当てに聴衆が集合するというのに、あるときに連れ合いが“耳障り”と言い出した。冒頭で「軽快な」と書いたが、表現を変えればそれは「単調な」とも書くこともできる。カンタンの“鳴き声”は抑揚がほとんどなく、ずーっと同じ調子で、途切れることなく“ルルルルルルルルル…”と、いつ終わるともなく続いているのである。 ミンミンゼミなら“ミーン ミンミンミン ミーン” キリギリスなら“ギーッ チョ ギィーッ チョ” スズムシなら“リーン… リーン… ” などというように、ほとんどの虫の音にはたいてい抑揚もあれば、区切りもある。カンタンのように単調に永遠に続くかのように音を立てているのは少数派のようだ。おまけに、カンタンの音はか細い体に似合わずかなり大きく、遠くまで届くのである。 単調で耳に残る音がずっと続いているとすれば、たしかに“耳障り”となることもあるのかもしれない。 日本人は虫の音を“風流”と感じ、西洋人は“雑音”と感じる − という説がある。 日本では、万葉集のころ、あるいは平安貴族の時代から虫の音を楽しむ文化があったという。そして、現在も虫の音の鑑賞会が開かれるくらいだから、多くの日本人が虫の音に対して好感を持っているのはほぼ間違いないことだろう。むしろ、“雑音”としか感じられないということの方に驚きを感じる。 ところが、身近なところにいる何人かの日本人ではない人にそのことを聞いてみると、たしかに虫の音を好感を持って聞く人には出会えなかった。サンプルは少ないが、日本人ではない人は虫の音を特に快くは思っていない、というのもまた真実なのかもしれない。 これに対して、歴史的に長い間に培われてきた日本人特有の感じ方による、という曖昧な説明もできないこともない。科学的な裏付けをするのはなかなか困難な仮説だろうけれど。 あるいは、「日本人の多くは虫の音を左脳で処理し、西洋人は右脳で処理するからである」などという、理論的に聞こえる説明がある。人の感覚は「脳」だから、この問題の行き着く先は脳科学の問題となる。 一般的に、右脳は感覚的なとらえ方、左脳は理論的なものの考え方に使われる、とされることが多い。 右脳と左脳というものは確かにある。体の左半分をコントロールするのが右脳、右半分をコントロールするのが左脳である。これは高校の生物の教科書にも出てくる。そして、言語中枢をつかさどる部分が右か左のどちらかの脳に入ってくるのだとか。左脳にあることが多いようだが、必ずしもそうではないという。言語中枢のある方を言語脳、ない方を音楽脳と呼ぶこともある。実験によって、音楽や絵画などを鑑賞しているときに活動的になっている部分と、論理的なことを考えているときに活発になっている部分は確かに異なっていることは確かめられている。この言語に関する部分がある方の脳が左脳的働きをするのだろう。けれど、脳が動いているのはその部分だけではなく、それ以外の反対側の脳も働いているのだとか。役割が明確に分かれているわけではなさそうなのだ。 仮に、虫の音を言語脳でとらえれば意味のあるものとして認識し、音楽脳でとらえれば雑音として認識するという仮説が正しいとしたとき、東京医科歯科大学の角田忠信氏が「日本人の脳」(1978年)で述べている興味深い仮説がある。 それは日常使う言語が感じ方の違いを作るのではないかという仮説である。日本語が母音に重きを置くのに対して、英語をはじめとした外国語のほとんどは子音を重要視するという言語の特徴があるという。そんな母音を大切にする日本語の特徴から、日本語を使う人は、母音を言語脳が処理するようになっているというのだ。そして、虫の音にはそれに似ている音調のようなものがあるという。 そして、もっと興味深いのは、日本語が他の言語と比較して、擬声語が多彩にあるということ。このために、虫や鳥や動物の声を擬声語で表すことで、動物たちの声を言語として頭が認識するようになるのだという。こうして、日本語で小さいころから育つと、自然界の物音を言語脳でとらえるようになるのではないかというである。 この仮説は、日本人が虫の音を雑音としてとらえないのは“日本の伝統文化”という以前に、日本文化のもっと根本にある日本語という言語によるものである、という結論に行き着くのだ。 どっぷりと日本語文化につかり、英語には多少ともコンプレックスを感じることの多い人間も、この件に関しては、日本語の環境の中に生きていてよかった、と少し優越感を感じても良いだろうか。 音をたよりにカンタンの姿を探しに行くと、彼は大きなフキの葉にいた。何者が開けたのか、フキの葉には直径1cmほどの穴が空いていて、その中から顔を出し、翅をその穴の後で振るわせているのだった。フキの葉に空いた穴にすっぽりと収まったような姿である。葉の上に顔、下に翅といった具合だ。そういえば、以前、ブラックベリーの葉で音を立てていたカンタンも、同じように葉に空いた穴に収まっていた。 おそらく、葉に開いた穴は演奏会場なのだ。葉のすぐ後で翅をこすり合わせることで、薄い葉がスピーカーのコーン紙の役割をはたしているようだ。カンタンはスピーカー付きの演奏会場でこれから晩秋まで気が済むまで奏で続けるのだろう。 連れ合いの脳は、この演奏をずっと“耳障り”と認識するのか、あるいは、あるとき、また“風流”と認識するようになるのか。これもまた興味深いところである。 |
演奏中のカンタンを下からのぞき込んでみた
2014.9.16. 榛名山西麓
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