2014年2月

雪原のシリウス


 シリウス。
 夜空で一番明るく輝く恒星に与えられた名前はギリシャ語で「焼き焦がすもの」だった。 中国名では“天狼”。天の赤道に近い位置にあるのに加えて、南天にあるので、南東の空を駆け上がり、冬の凍てついた夜空を、南西の空へ足早に駆け抜けていく。その様子は、孤高のイメージを抱かせる。
 エジプトではナイル川の氾濫を報せる星。日の出直前にシリウスが昇るようになると、間もなくナイル川が氾濫する時期になる、と。
 青い星のイメージが強いが、シリウスのA型に分類されるスペクトル型の光は白色の光である。“焼き焦がす”ほどに強烈な光は、極寒の、キーンと冷え切った透明感あふれる張りつめた空気の中にある。
 シリウスの光はまさに冬の光だ。

 榛名山の西麓に広大な畑があるのを知ったのはしばらく前のことだった。榛名山の山頂部は急傾斜の斜面だが、その外側にある裾野は意外に広い。
 その広大な畑に立って、北の上越国境の白い山並みや、榛名山の山腹を眺めているとき、この地の夜の風景が頭に浮かんできた。
 雪原の上を左から右へ駆け抜けていくひとつの光。もちろん、その光はシリウスだ。
 冬の光に地上の風景は畑の黒い土では似合わない。シリウスが描く白い光跡の下は白い雪原であってほしい。頭の中では、すっかりとその映像ができあがっていた。そして、そんな写真を撮りたいと機会を狙っていた。
 冬の時期、榛名山麓は晴天となることが多い。シリウスを見るのは容易なことだ。だが、撮影を意識してから雪は思うように降ってはくれない。冬型の気圧配置が強まったときに、北から雪が飛んでくることはあっても厚く降り積もることはなく、白い雪の中に斑に黒い土が見えていたりして、満足できるような状況はなかなか実現しなかった。
 思い立ってからチャンスが訪れたのは2月8日の関東に記録的な大雪をもたらした時だった。
 8日の朝から降り始めた雪は一日中降り続き、庭先には32cmの雪が積もった。榛名山麓ではこれ以上の雪原はないというくらいの景色ができあがった。
 そして、十分に降った後で晴れ間が訪れた。
 9日の夜。空には月齢9の大きな月。月明かりは想像以上に明るい。とくに一面の雪化粧となった地面は月明かりを反射して、同じ月齢のときよりも数段の明るさとなって見えていた。
 さっそくカメラと三脚を自動車に積み込んで、雪でアスファルトの隠された道路を目的地へ向かう。もちろん、そんな雪だから自動車で撮影ポイントの近くまでたどり着くことは考えていない。行けるところまで自動車で行って、そこからは雪の中を歩くのだ。
 畑への入り口は予想通り雪で埋まっていた。30cmを超える積雪では四駆とはいえとても走ることなどできない。足跡1つない畑の入り口に、勢いをつけて突っ込み、そこに止めた。まだ表面の凍っていないさらさらの雪は、自動車のボディーに傷を付けることはなかった。
 車内で長靴に履き替えて、一歩踏み出すと、脚はひざ下までもぐり込んだ。
 月明かりの雪原は、準備してきたライトなど全く必要なかった。冷え切った空気のもとで、積もった雪はサラサラの状態である。踏み込んでも靴のくっきりと形が残ることはなく、雪面から足を抜けば、その穴はまわりの雪が砂のように崩れてきて、穴の底を埋めてしまう。
 榛名山麓がシーンと寝静まってしまったような静けさの中、夜の白い雪原をひとり歩いていくと、別の世界へ迷い込んでしまったような感覚を覚える。後を振り返ると、歩いてきた足跡が一直線に点々とくぼみを作っているのが見える。雪が降って以来、誰も通っていないまっさらな雪の上に、唯ひとつだけの足跡。広大な静寂と、砂丘のような雪原と、凍りついたようなシリウスの光。雄大な榛名山麓の裾野の雪原で見るシリウスはまるで別の世界の風景だった。
 だが、この人間の眼で捉えた風景は、けっして一枚の写真として収めきれるものではないといつも感じる。その風景の一部をカメラのレンズで切り取って一枚の画像にしてみても、後で見直すと、平凡なつまらない写真にしかなっていない。その現場の空気の流れ、温度、匂い… 画像として記録できないたくさんのものがそこにあって、人は風景を感じているのだ。動画であってもそれは同じである。この眼前の現実をそのままに一枚の写真で表現できたなら、といつも思う。
 そこにある風景が荘厳で、壮大であればあるほど、現実で切り取った写真のギャップは大きい。
 出来あがった雪原のシリウスの写真は予想通り、つまらない写真にしかならなかった。
 昼間のような雪の原にシリウスの白い光跡と雲の流れ。その本当の風景を知らない人が見たら、たぶん何ともさえない写真である。だが、撮った本人だけは、その一枚のつまらないように見える写真からそのときの本当の風景がはっきりと蘇ってくる。その空気の冷たさ、月の明るさ、雪の原の不思議な雰囲気、夜のシーンとした音にならない音…。
 その神秘的な雰囲気を他人に伝えられない未熟さはなんとも残念である。

 昼間のような雪原とシリウスの光跡 2014.2.9. 榛名山西麓








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