2014年1月

枝先の顔

 「グラスの底に顔があってもいいじゃないか!」
 そう言ったのは岡本太郎だった。
 1976年、ロバートブラウンのおまけに付いてきたグラスの底にあったのは、大阪万博で作られた「太陽の塔」にあったような顔だったという。
 林の中にも顔がある。特に、葉の落ちた秋から冬の雑木林にはたくさんの顔がある。
 それは枝から葉の落ちた痕。もう少し正確に記すと、葉柄の付いていた枝に残された痕跡で、葉痕あるいは葉柄痕と呼ばれるものだ。
 不思議なことに、人はいろいろなものに顔を見る。
 丸でも、楕円形でも、四角形でも、三角形でも、輪郭があって、その中に小さな2つの同じような形が並んでいると、それは目となり、その2つ並んだ“目”の中央下にもう一つ何かがあれば、それは口に見えてくる。一度そう見えてしまうと、それは一層具体的な形となっていく。人面石、人面魚、人面××…、自動車でさえ正面から見れば2つのヘッドライトが目のように見えて表情が出てくる。人は見たいように見るものなのだろう。こんな錯覚には「パレイドリア効果」という名前が付けられている。

クルミの小人たち

クルミの枝の途中にある顔


 林の中の葉痕を見てまわると、次々に変わった顔が見えてくる。中でもクルミの葉痕は、周辺の林の中で最もおもしろい姿をしていた。やがて来る春に開く若芽を上に載せた姿は、とんがり帽子を被った小人のようでもある。連れ合いによれば、それは指人形のようだという。顔は枝先だけにあるのではない。枝の途中にも、葉が付いていたところがあれば、そこにも顔がある。
 人の顔がそれぞれ個性的にできあがっているのと同じように、葉痕の顔もどれもこれも違った顔に見える。この顔はサル顔、これは埴輪顔、これはちょっと怒った顔…などと見てまわっていると、1時間くらいはすぐに経ってしまう。
 葉痕の目や口に見える部分は、植物の維管束系と呼ばれるもので、根から葉へ水や養分を伝える「道管」と、葉が光合成で作ったでんぷんを外へ送り出す「師管」の断面である。あたりまえだが、植物が顔のようなものを作ろうとして作ったのではない。動物の擬態とも違う、あくまで偶然の造形なのだ。それを見る人が勝手に頭の中で顔を作り出しているに過ぎない。
 想像でしかないが、ヒトという生物がいろいろなものを顔として認識するのは、生きること自体が困難だったホモ・サピエンスになる前の遠い昔、敵・味方、あるいは獲物をいち早く察知することが生きのびるのにとても重要なことであった名残ではないか、と思ったりもする。

 あと数ヶ月すると、顔の上のとんがり帽子が開いて、新しい葉が新緑を作っていくことだろう。次の年の顔は、このとんがり帽子の下に隠れている。









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