2014年1月
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浅間軽石 |
国道406号線は高崎市倉渕町から東吾妻町を通って草津へ抜けていく。倉渕側の道路は烏川の支流の長井川に沿いながら上りつめ、倉渕温泉の少し上で烏川と吾妻川を分ける分水嶺である大沢峠と呼ばれる小さな峠へと続き、そこから国定忠治が関所破りをしたという東吾妻町の大戸の関所跡へと下る。倉渕町権田から東吾妻町大戸にかけてはちょうど榛名山の西の縁を南北に横切っていくようなラインである。 その権田から倉渕温泉の区間では、このところずいぶんと長い間、道路の拡張工事のために、場所を転々と変えながら、片側通行にして道脇を削っていた。 そんな道路工事現場を毎日のように自動車で通り過ぎていると、目についてきたものがあった。倉渕温泉から権田に向かって下って行った途中にある、夏になると大盛況の中野さんの直売所のすぐ下のところで、長井川の右岸を削って、崖が現れたのだ。 臨時に設けられた信号機で停まるわずかな時間に見るその崖には、遠目にも黒い土に挟まれて、地表からおよそ10cm程度下のところに厚さ5cmほどの灰色の縞模様がわかった。これはおそらくは軽石の層だ。 榛名山の西麓の表面近くにある黒色土の中に入っている軽石層は3種類ある。いずれも浅間山から飛んできた軽石で、浅間A軽石、浅間B軽石、浅間C軽石と名前が付けられている。それぞれ、浅間A軽石は江戸時代の天明3年(1783年)の大噴火、浅間B軽石は平安時代の天仁元年(1108年)の大噴火、浅間C軽石は古墳時代の3世紀ころの噴火ということが地質学と考古学の研究者によって明らかにされている。 榛名山も二ツ岳が古墳時代に噴火しているので、黒色土の中に軽石の層を作っているのだが、二ツ岳からの噴出物は山頂から西側へは飛んできていないため、榛名山西麓ではその軽石層は分布していない。榛名山西麓で黒色土の中に軽石層を見たら、それは浅間山起源のものと思っていいのである。 さて、その道路工事の崖に出現した軽石層らしいものは何なのだろうか。 とりあえず、信号待ちの間にせわしなく見るのではなく、ゆっくりと見るために、近くの公民館に自動車を駐車して、歩いて近づいてみた。 黒色土の中に挟まれているのはやはり軽石層らしかった。遠目ではわからなかったが、近づいてみると、その軽石層の中にも縞模様のようなものが見える。これが軽石層であるならば、それは一度の噴火で降り積もったものではなく、数回に分けて断続的に降り積もってできたことを示していることになるのだろう。黒色土の下には角があまりのとれていない淘汰の悪い角礫が積み重なっている。遠くから流されてきたというよりも、その辺の崖から崩れてきたような堆積物だ。
家の周りの雑木林の中を掘ってみると、こんな軽石層が必ず出てくる。それは、ここへ移住してきたときから気がついていたもので、灰色〜茶色に見える発泡のよい固い軽石である。大きなものでは直径1cmにもなるようなものがある。これは道路脇の崖に出ている軽石層と同じものではないか。掘った時の深さも似たようなものである。 これは江戸時代のものか、平安時代のものか、それとも古墳時代のものなのか…。 浅間山の過去の噴火で軽石がどこにどれだけの厚さで積もったかを示した分布図(アイソパックマップ=等層厚線図)が研究者によって作られている。噴火のとき火口から飛び出した軽石や火山灰は、その時に吹いていた風にのって、風下に向かって吹き飛ばされていくのだが、方向はかなり限定されるものだ。 そのアイソパックマップを見てみると、浅間A軽石はあまりここには飛んできていないことがわかる。天明の噴火で噴出した軽石は浅間山から東南東の方向に飛ばされて、安中市、藤岡市の方向に厚く降り積もって、榛名山麓にはほとんどない。あるのは浅間B軽石と浅間C軽石である。 群馬県埋蔵文化財調査事業団編「自然災害と考古学」(平成25年・上毛新聞社)に載せられているアイソパックマップを見てみると、平安時代の噴火も古墳時代の噴火も似たような軽石の分布を作っていて、ここ榛名山西麓では浅間B軽石が25cm程度、浅間C軽石が10〜5cm程の厚さであることが読み取れる。 崖に2枚の軽石層が見えれば、上が浅間B軽石で下が浅間C軽石である、と推測するのも簡単なのだが、あいにく道脇の崖では見る限り1つの軽石層しか見えない。 この見極めはどうしたものか。 しばらく、わかりそうな人に尋ねたり、文献を調べたりしたのだが、なかなか判然としなかった。 ところが、しばらくして、群馬の地質に詳しい元埼玉県の地学の教員で現在は群馬大学の研究生となっているNさんにその現場の写真を見てもらったところ、軽石層の中に数枚のユニットが見えるということから、おそらく浅間B軽石だろう、という答をいただいた。 平安時代の天仁元年(1108年)、今から900年以上前の浅間B軽石を噴出した浅間山の噴火は過去1万年の間で最大の噴火だったと推定されている。軽石の噴出を伴った大爆発は、長野県御代田町や群馬県嬬恋村・長野原町へ流れ下った追分火砕流をはさんで前後にあったはずだという。そのときの噴火の音、そして赤い噴火の色は遠く離れた平安京でもわかったという記録があるのだとか。単純に地図上で浅間山と京都の中心部あたりまでの距離を測ってみると、その距離は280kmを超える。しかも、その間には日本アルプスが横たわっているのだ。その噴火のすさまじさは想像を絶する。 浅間A軽石を噴出させた天明3年の噴火については、いちばん最近の大噴火ということで、たくさんの情報が残されている。吾妻火砕流、鎌原村を埋め尽くした鎌原土石なだれ、鬼押し出溶岩流、吾妻川から利根川や江戸川を流れ下り死者1500人以上を出して太平洋まで達した天明泥流、軽石や火山弾などの火山噴出物によっても多くの家が壊され、噴石に当たって死者も出ている。山火事も起こり、噴煙は群馬県内はおろか東京までもが昼間でも照明を必要とするくらいの暗さになっていたとある。浅間山から20数km程度しか離れていない榛名山麓から見る光景は、この世の終わりとも映るようなものだったに違いない。 浅間B軽石を噴出させた平安時代の大噴火もそれに匹敵する、いやそれ以上のものだったはずだ。 道路脇にひっそりと顔をのぞかせた厚さ数cmの軽石層は、ほんの少しだけ過去にあった、この世の終わりのような激しい地球の記憶をとどめ、静かに、今もそこにある。 |
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