2013年9月1日。榛名湖のワカサギ釣りが解禁となった。2011年の震災、そして福島の原発事故以降はじめてのことである。
とはいえ、「釣ってもいいけど、持ち帰ったり、食べるのは禁止」という条件付きの解禁である。ブラックバスならまだしも、ワカサギは手応えを楽しむというよりも、釣って食べて楽しむ魚だろう。あんな小さな魚をたくさん釣り上げたところで、食べられず、釣りあげたものは回収とは、楽しみは半減どころの話ではない。
これまで、榛名湖のワカサギについては、2011年、2012年と放射線量を測定するために必要な量のワカサギが採取できなかったとして解禁が見送られていた。今年になって、1月26日に検体を確保でき、やっと検査までたどり着いたと思ったら、134Csと137Csをあわせて340 Bq/kgもの放射性物質が検出されてしまっていた。これはもちろん基準値超えである。新聞によれば、これも1月21日から26日にかけてやっと確保したわずか4匹・42.3gからの結果らしい。
100 Bq/kgの基準値を下回ったのは、8月20日に採取した検体で、134Csが21.4 Bq/kg、137Csが45.1 Bq/kgの合計67 Bq/kg。検査をしたのは群馬県の蚕糸園芸課である。だが、その次の検査では 134Csと137Cs合わせて120Bq/kgとなって、またもや基準値超え。9月6日に採集した検体では基準値をわずかに下回った91 Bq/kg。さらに9月15日の検体は110 Bq/kg 。とても低レベルで安定しているというようには見えない。3回連続して100Bq/kg を下回ればすべての規制が解除されというが、この基準値ギリギリの数値ではとても食べる気はしない。
環境省大気環境局水環境課では福島第一原発の事故の後、いくつもの湖や沼で底にたまった泥や砂の放射性物質についての調査を行っていて、その結果を公表している。
事故が起こってから一番近い時期の榛名湖のデータは2011年11月23日に湖心から採取したシルトのものである。このシルトは134Csも 137Csも検出限界値を下回っている。同じ時に公表された群馬県の湖沼のデータは他に18カ所あって、一番高い藤原湖ではセシウムの合計で4600 Bq/kg、2番目の碓氷湖で2600
Bq/kgもの値が出ている。赤城山の大沼でも1160 Bq/kg である。
データは同時に湖畔の空間線量と土壌についても測定されていて、榛名湖畔ではセシウムの合計が2500 Bq/kg・0.37μSv/hとなっている。この空間線量は同時に公表されたその他の湖沼の中では一番高い値である。先出の藤原湖畔では760 Bq/kg・0.15μSv/h、碓氷湖畔では660 Bq/kg・0.15μSv/hで、榛名湖の方がはるかに高い値となっているのに、なぜか湖底からは検出されていない。その傾向は、栃木県と群馬県の県境付近にある丸沼と似ているところがある。ただし、丸沼の方が湖畔の放射線量は榛名湖よりも低めではある。
公表されたデータを追っていくと、榛名湖では2013年6月11日まで5回の測定が行われているが、湖底の泥ないしシルトから100 Bq/kg以上の放射性物質が検出されたことがない。
湖岸には確かに大量の放射性物質が見つかっているにもかかわらず、湖底では検出されないというのは、不可解な現象である。
榛名湖周辺では放射線量はいろいろ調べられていて、それ相当の放射線量が計測されている。自らもガイガーカウンターを持って調べたこともあるけれど、部分的に異常に放射線量が高い場所が何ヶ所もあった。
最近では9月上旬、「さよなら原発 群馬郡の会」が調べたというデータがチラシとして届けられた。榛名地域と倉渕地域の数カ所のデータが掲載されていたが、その中で榛名湖周辺の場所を抜粋してみると、下のような数字があった。
|
|
「さよなら原発 群馬郡の会」 測定の空間放射線量(抜粋)
測定場所 |
地表 |
地上50cm |
地上1m |
湖畔の宿公園排水口 |
0.272 |
0.152 |
0.132 |
バス停榛名高原学校 |
0.636 |
0.415 |
0.351 |
榛名高原学校石垣下 |
1.207 |
0.707 |
0.611 |
湖畔ヒノキ根元付近 |
0.557 |
0.484 |
0.404 |
ロープウェイ前 |
0.196 |
0.157 |
0.144 |
杖の神峠 |
0.391 |
0.379 |
0.337 |
単位は μSv/h
測定日 2013年5月15日(杖の神峠のみ6月10日)
|
|
これらのデータは、榛名湖周辺に相当の放射性物質が降ったことを示している。榛名湖周辺に降った放射性物質は当然、榛名湖に流れ込んでいったものと思っていたのに、湖底にはほとんど無いというのだ。湖畔の放射線量が他の地域に比べて一段と高いのに、いったいどこに濃集しているというのだろう。
ところで、ワカサギは1年でその一生を終える。2011年あるいは2012年に榛名湖に生息していたワカサギはすでにいない。時には産卵せず、2年、3年と生きる個体もいるようだが、基本的にはアユと同じように1年で卵から成魚になって、卵を産み終えて死んでしまう。
産卵の季節は冬から春。榛名湖は3月が産卵シーズンとなるようだ。8月〜9月に検査されているワカサギは今年の3月から6ヶ月くらいの間、榛名湖で生きてきた個体なのだろう。検出されているのはその約6ヶ月の間に体内に蓄積されたセシウムと考えることができる。2013年1月に検査され、340 Bq/kgもの放射性セシウムが検出されたのは、その前年の2012年の春に孵化し、10〜11ヶ月を経過した個体だったはずだ。
食性は肉食である。検体となったワカサギも約6ヶ月の間、あるいは10〜11ヶ月の間、水中のプランクトン、水生昆虫、稚魚etc…、榛名湖に生息していた他の生物たちを補食し続けてきたはず。体内のセシウムはその食った生物たちがもたらしたものだろう。
榛名湖にセシウムが無いわけがない。湖底の堆積物から検出されなくとも、そこに生息している生物の体の中にはすっかりと取り込まれているのだ。
ワカサギの体内の放射性セシウムが100 Bq/kgを下回ったか、上回ったとか、目先の数値にとらわれているけれど、根本的な対策は何一つ立てられてはいないし、立てられそうもない。一度自然界に流れ出してしまった放射性物質をどうにかしよう、などということはどこかの首相が言うほど簡単なことには到底思えない。
オリンピックの開催地を決めるIOC総会の席で、首相は福島第一原子力発電所の汚染水に関して、「状況はコントロールされており、東京にダメージを与えることはない。」と述べたと伝えられている。
その汚染水に対して、政府は国費として470億円を投入するとした。470億円がどれほどの金額かピンとはこないが、それだけで何とかなるのかな…という疑念は間違いなくある。いくら国費を使おうとも、事故前の自然環境に戻すことなど不可能だ。時の首相、あるいは政府は、原子力をコントロールできると本気で思っているのだろうか。原発事故の後始末にどれだけの金額をつぎ込もうとも、失われた環境は元には戻らない。
人類が人工的に核分裂の連鎖反応を作り出したのは1942年のこと。それからの71年の間にどれほどの人為的な事故が起こったことか。臨界事故や核爆発などでまき散らされた放射性物質はこの71年間で、1942年以前に比べて桁違いに増えたことだろう。その影響がどんなふうに自然界に効いてくるのか、あるいはすでに効いているのか、今生きている我々には今ひとつ掴めていない。確かなのは、我々はすでに放射性物質が地球中にばらまかれた後に生まれてきた人類であるということ。未来の人類にとっての地球規模の生体実験中というところだろうか。
人類がどうやって滅びるのか、ということに関してはいろいろな説がある。中には、50億年後とも見積もられている地球が太陽に飲み込まれる時まで、そこに人類がいると思っている脳天気な人もいないこともないが。
地球が生まれてここまで46億年。生物は時間とともにその姿を変え生き延び、あるいは絶滅してきた。そこに示された生物の進化の法則ともいえる傾向を見れば、何が長く生き永らえ、何がほどなく絶滅していきそうか、ということを推測することができる。
地質時代の長きに渡って生き続ける種というのは、おしなべてその姿や生き方をほとんど変えていない。表現を変えれば進化していないということ。「生きている化石」とされている生物たちはみんなそんなものである。
逆に、すぐに絶滅していったのは、めまぐるしくその姿を変えていったものたち。その環境に特化して、その環境では良く生きられるけれど、ひとたび環境の変化が起こればそれに順応できずに消えていく運命にあった生物たち。中生代に繁栄したアンモナイトなどはその良い例だろう。
人類の変化は他の生物たちに比べて相当に速い。アウストラロピテクスの生きていた時間は200万年よりも少し昔のことだが、その骨格と現代人の骨格を比較してみれば、その違いに驚く。種も違うとはいえ、わずか200万年の間に劇的にその姿を変化させたといえる。
人類の特徴は、自らを変えることに目的を持っているのではないのだろうか、と思うことがある。より便利に、より快適に、進歩こそ最高のもの、と自らを変えていくことを「良」とし、古いものに対して、あるいは変わらないものを「悪」と見なす傾向。そして、ひとりひとりはそう感じなくても、社会全体がそんなふうに動き、それを誰も止めることができない状況。より便利に、より快適に、は常に何かを変えようとしてもがいている社会だ。自転車のように動き続けなければ倒れてしまうような社会。
人類が制御できないような原子力に頼ることをやめられないような社会はもはや末期的なところにまで来ているのかもしれない。
|