高崎市倉渕町のTさんがカイコを持ってきてくれた。
小さな段ボールの箱にはクワの葉が敷きつめられていて、そこに数十匹という数の小さなカイコがいた。養蚕農家が飼うカイコの数にしてみれば、数のうちには入らないようなものなのだろうが、そのカイコは圧倒的な数に見えた。
カイコはなじみの深い昆虫である。幼虫の姿がまず頭に浮かぶが、もちろん成虫もいる。鱗翅目カイコガ科の蛾である。標準和名は「カイコガ」。
まだ小学生の頃はカイコを飼っている農家は珍しいものではなかった。クワ畑はいたるところにあったし、家の中で飼われているカイコの姿はどこにでもある風景だった。だが、正直なところ、そのころ、カイコはあまり気持ちのいいものではなかった。白いイモムシがたくさん家の中で蠢いている姿は、不気味ものに思えたものだ。近づけば、パリパリというか、ザワザワというか、かすかなクワの葉をかじる音が聞こえるのである。そんなものが同じ家の中に大量にいることが不気味だったのだろう。
次にカイコに出会ったのは高校生のときだった。生物の時間に「ホルモン」を学んだときのことである。このころ、すでにカイコは身の回りからは少し遠い存在になっていた。おそらく、急速に養蚕農家が消えていった頃だったのだろう。そこでカイコの成長に関与するアラタ体ホルモン(幼若ホルモン)と前胸腺ホルモン(エクジステロイド)という聞き慣れない名前のホルモンが紹介された。頭部にあるアラタ体から分泌されるアラタ体ホルモンは幼虫の姿を持続させ、胸部にある前胸腺から分泌される前胸腺ホルモンは脱皮や蛹化・羽化を促す、と。
そのカイコのホルモンに関する実験は、カイコの頭部と胸部の間を縛って、アラタ体ホルモンが胸部あるいは腹部の方へ流れていかないようにするものだった。そんなことをしてよくカイコが死なないものだと驚いたものだが、それと同じくらいその結果は驚くべきものだった。アラタ体ホルモンが分泌された頭部は幼虫のままなのに、縛られてアラタ体ホルモンが行かなくなった頭部から後の部分だけがサナギに変わってしまうのである。
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かなり大きくなったカイコ 2013.7.19. |
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ところで、カイコといえば群馬県は深い縁がある。
昭和29年以降、繭の生産量は全国1位。生糸の生産も同様である。なにしろ、世界遺産登録を目指している富岡製糸場があるくらいだ。
榛名山麓にもカイコに関係する遺跡≠ェ残されている。榛名山のいたるところにある風穴を利用して、カイコの“種”を保存するのに利用していたという。伊香保森林公園にある榛名風穴やクライミングゲレンデがある黒岩の下の黒岩風穴などである。
総務省統計局のデータ(明治7年〜平成16年)によれば、もっとも養蚕農家が多かったのは1929年(昭和4年)で、全国で2216602戸あったとされている。それが2004年(平成16年)になるとわずか1850戸。最盛期の1/1200である。桑畑の面積では1930年(昭和5年)の707550ヘクタールが最大で、2004年には3442ヘクタールにまで減っている。
「全国1位」を誇りながらも、業界全体が風前の灯なのだ。品種改良やシルクのブランド化など、いろいろ活性化の取り組みはされてはいるけれども、いつしかカイコを飼う農家は消え、気がつけばすっかり大きく育ったクワの木だけが忘れ去られたように畑の縁に残っていたりするのを見かけるくらいになってしまった。
我が家にやってきたカイコの動きはまるで緩慢なものだ。ほとんどその場から動かない。それは別にこのカイコが特別なものではなく、カイコという種がそういうものなのだろう。 カイコは野生では生きられない昆虫である。人間が都合の良いように作り変えてきた、いわば家畜である。幼虫は揺れ動く葉にくっついていられるほどの脚力もないらしく、生えているクワの葉に置いてもすぐに落ちてしまう。成虫となって翅ができても、その翅はただの飾りでしかなく、カイコガが飛ぶことはない。繭を作ることだけに特殊化させられた昆虫なのだ。
人間が手を加えて、人間の都合で繁栄したカイコは、人間が必要としなくなったときには絶滅するしか道はない。生命として、カイコはあまりに弱すぎる存在だ。
そんなカイコの中に混じって、カイコによく似た茶色がかった幼虫がいた。エサとして採ってきたヤマグワの葉に付いていたのだろう。お尻にはカイコよりも立派な突起が1つ立っている。クワコだ。ヤマグワの自生しているこのあたりでは、季節になると、ときどき見かけることがある。
クワコはカイコの原種とされている昆虫である。通説では、このクワコが品種改良されてカイコになったという。今から5000年とも9000年前ともいわれる中国でのことだ。
クワコは以前試しに飼ってマユを作らせたことがあったが、それは小さなマユで、カイコのマユの1/4〜1/5ほどでしかなかった。終齢幼虫の大きさもカイコに比べれば比較にならないくらい小さい。それでもそのマユの糸はカイコが作ったマユと見分けがつけられないほどのもので、生糸にしたならばまったく同じものと見られることだろう。
その昔、このクワコから生糸がとれると知った人間が、品種改良をしてカイコを作ったと考えるのも納得がいく。なにしろ、クワコとカイコガは交配可能なのだそうだ。
カイコの中に1匹だけ混じっていたクワコは、緩慢なカイコとは少し違う動きでクワの葉の下へ潜っていった。それはけして素早い動きではなかったけれど、やはり“家畜”に比べて野生味のする力強い動きだった。彼らは枝から落ちることはないし、成虫となれば翅を使って空を舞うことができる。人間がいようがいまいが、とりあえず生きていくことができるのだ。
たいして強そうでもないクワコだが、やはり野生は一味違うのである。
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