2013年11月

オヤマボクチ


 縁があって埼玉県行田市の「がんこそば」で行われた新そば祭りに招いて頂いた。参加させてもらったのは今回で3回目である。
 蕎麦の研究に余念がないがんこそばの御主人をはじめ主要なメンバーは、共に畑で蕎麦を育てたり、自ら蕎麦を打つだけではなく、いろいろな所からも蕎麦粉を取り寄せて、食べ比べるのである。メンバーには自ら蕎麦を打つ人が多いようだけれども、食べるだけの人もいる。もちろん、私も「食べるだけの人」のひとりである。
 この日、蕎麦の話題で盛り上がったのはオヤマボクチだった。オヤマボクチを蕎麦打ちのとき、つなぎとして使うというのだ。話だけではなく、Mさんが苦労して長野県の某所で手に入れたというオヤマボクチを使って打たれた蕎麦が出された。いっしょに出された他の蕎麦に比べて、何やら少し固めの食感がある。だが、他と何かが違うようなのだが、悲しいかな、味音痴を自認する者としては、それ以上のグルメ的な表現ができない。「のどごしが違う」などと書きたいところだが、「何かが違うようだ」くらいしかわからない。もちろん美味しいのには違いないのだが。

 オヤマボクチはキク科の植物である。キク科オヤマボクチ属。広くとらえればアザミの仲間だが、アザミの花のような華やかさは無い。たしかに花を見ればアザミの花に似ているのだけれど、さえないアザミの仲間といったところだ。
 オヤマボクチを蕎麦に使うというのを聞いたのは、実はこのときが初めてではない。草津温泉へ上っていく国道292号線沿いに、立ち寄ったことはないのだが、オヤマボクチを売りにした蕎麦屋があって、多少とも気になる存在ではあったのだ。だが、蕎麦に利用するのはその根であると思いこんでいた。オヤマボクチの根はモリアザミやオニアザミの根と共に“ヤマゴボウ”として食料にされるというのは周知のことで、当然、蕎麦としての利用もその根だと思ったのだ。ところが、会の中心メンバーであるYさんの話では、使うのは葉だというではないか。葉の繊維が蕎麦のつなぎに使われるというのである。
 小麦粉の代わりに植物の繊維を使うとなれば、歯ごたえがあるのは当然である。今回、このオヤマボクチ蕎麦を打ったというNさんによれば、切るのがとても大変で、普通の蕎麦を切るようにはいかなかったという。そういえば、他の蕎麦に比べて、オヤマボクチ蕎麦は少し太麺だったような気がする。

 オヤマボクチ蕎麦を食べた1週間ほど後のこと。
 たしか、あの辺りにオヤマボクチが生えていたはず… と、思い出して、榛名山の某所を訪ねてみた。
 オヤマボクチの花期は9月〜10月頃の秋の花だから、もう花は無いだろうと思ったが、実のついた果穂が残っているのではないかと思ったのだ。
 思い描いた場所へ行ってみると、予想通り、あちらこちらにすっかりと枯れたようになったオヤマボクチがあった。さすがに花の状態のものはなく、花の咲いたあとに茶色がかった綿毛をつけた果穂ばかりである。葉は虫に喰われて穴だらけで、茶色く枯れかかっているものが大部分だった。その形は大きな卵形で先端は尖っている。柄のついている部分は心形にへこんでいて、全体を見ると大きなハート型のように見えた。そして、表面は濃い緑色なのに対して、裏側は対照的に白い色だ。その裏側の白い表面を手で触ると、柔らかいビロードのような手触りである。ルーペで見てみると、細かい毛がびっしりと葉の裏側を覆っているのがわかった。白く見えるのはこの細かい毛の色のためだ。
 オヤマボクチの「ボクチ」は「火口(ほくち)」のことなのだと後で知ったのだが、この葉の裏の細かい繊維は火起こしのときの最初の火をつけるものとして利用されていたのだった。わずかな火でも着火するような繊細な繊維なのである。指先でつまんで見ると、その繊維がほんの少しだけ剥がれてきた。指先についたその繊維を別の所に移そうとしても、静電気でも発生しているのか、指にくっついたままで離れない。剥がしとった繊維はちょうど掃除の行き届かないところにできる綿ぼこりのようだった。この繊維が蕎麦のつなぎで効力を発揮するのだろう。
 根や葉を食料とし、あるいは火口として使い、さらには、地方によってはヨモギの代わりとしても利用し、これまでオヤマボクチは自然の中で生きるヒトと共にあった。
 ヒトが自然と共にあった時代、オヤマボクチはもっと身近な存在だったのだろうが、今、野にあるオヤマボクチを知る人はおそらくそう多くはいない。これから日常生活で火口として利用することはたぶん無いだろうし、オヤマボクチ蕎麦が大ブームになって、野のオヤマボクチがタラの芽のように争うように採られることもないだろう。それだけ考えれば、オヤマボクチにとっては採られる心配の少なくなった良い時代のように感じられるかもしれないけれど、そのヒトが自然と共にあった時代に比べ、、野に生きる生き物たちの生きられる空間はぐっと減ってしまった。人間のあふれかえった平野部には、自然に生えてくる植物たちを自由にさせてくれるスペースなどない。唯一人の手のあまり入らなかった河川敷さえグランドや公園へと人のためのものに作り変えられていこうとしている。
 榛名山のオヤマボクチはただ雑草のように、いつまでも野に立ち続けてほしいものである。


種のできたオヤマボクチ
2013.11.16. 






まだみずみずしさの残るオヤマボクチもあった
2013.11.16.





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