2012年12月
甲(よろい)を着た人骨


 甲(よろい)を着た彼がいたのは赤黒い火山灰土の溝の中だった。
 1500年の歳月を経て、再び地表に現れた古墳時代の人物。彼の着ていた甲は、その経過した時間を物語るように、弱い冬の陽射しの中で触ればボロボロと崩れてしまいそうにさびて、赤茶色となっていた。
 甲から少し離れた所には頭蓋骨。彼は頭を西へ向けて、俯せで倒れている。その方向は概ね榛名山の山頂の方向である。

 溝の中の状態。
 右奥が甲の下の部分。左前は甲の別の部分だが、詳細は不明。右奥の甲の手前に頭蓋骨がある。この写真ではこちら側(左前方)に向かって倒れていることになる。


 2012年12月10日。「甲を着た人骨が発見された」というニュースが発信された。榛名山の噴火による火砕流で埋められた場所から古墳時代の甲を着た人の骨が出土したというのである。
 現場の「金井東裏遺跡」という遺跡は初めて聞く名前である。場所は吾妻川と利根川の合流点から少し上流の吾妻川の右岸にあたる。地形図で眺めてみれば、以前訪れたことのある黒井峰遺跡とは吾妻川をはさんですぐ近くである。さらにその少し南には公園として整備された中筋遺跡もある。このあたり一帯は榛名山の噴火による火砕流や降下軽石によって埋められた遺跡群が点在している場所だったのだ。
 現地説明会が開かれたのは12月12日。一般人が現場でその姿を見ることができるのはこの一日だけという。壊れやすい遺物の状態のため、長い間そのままの状態にはしておけないとのことで、一日のみの公開となったようだ。
 説明会は平日にもかかわらず予想以上の人出である。県道35号線は駐車場となった金島中学校と金島ふれあいセンターへの交差点で渋滞を引き起こしている。
 遺跡は吾妻川を眼下に見下ろすような所にあった。吾妻川の作る河岸段丘の上である。
 遺跡の大部分は青いビニールシートがかけられていて、その地肌を見ることはできないようになっていたが、所々に少し赤みがかった黒い火山灰の堆積物が顔を覗かせていた。そして、掘った断面には白い軽石の層も見える。二ツ岳からの降下軽石だろう。遺跡はこの軽石層を取り去った下の面である。発掘にあたっている群馬県埋蔵文化財調査事業団によれば、この遺物を埋めていたのはやはり火砕流堆積物であるという。状況は火砕流にのみ込まれたことを物語っている。
 彼は何者だったのだろうか。
 この地を治めていた長なのか、兵士なのか…?
 近づいてゆっくりと見ることができないので確認はできないのだが、説明によれば、膝立ちの状態で前のめりに倒れたのではないかという。火砕流に背を向けて逃げるのではなく、膝立ちでやってくる火砕流を正面に見て、熱い火山灰に向かうように倒れたのか。
 祈っていたのだろうか。その最期の姿勢と、甲をまとったという普通ではない姿はそんな想像をかきたてる。
 榛名山の山頂はどこにあるのだろうか…。そう思って、そこから榛名山の頂を探してみた。だが、山らしいものは何も見えなかった。地図で見れば、二ッ岳はそこから西南西の方向にあるはずなのだが、山腹の傾斜はわかっても、山頂は全く見えない。榛名山の山頂部分は近くの急傾斜の斜面にさえぎられているようだ。
 火砕流がこの地を襲ったとき。もしかしたら、彼はその瞬間まで、火砕流がやってくるのは見えなかったかもしれない。もちろん、鳴動した榛名山の異変がわからないはずはないのだが、その瞬間の火砕流は直前まで見えなかった可能性がある。
 榛名山・二ツ岳が活動した古墳時代のこの噴火の前は、はるか1万年も前のこと。榛名山東麓に生活していた彼らがそれを知るはずもない。山が火を噴くなど想像しないことだっただろう。ある日、突然のように山が爆発し、轟音を上げ、灰を降らせたとしたら、それは理解不能の出来事で、山の怒りとでも思うしかなかったはずだ。
 

 突然の悲劇から1500年後の榛名山麓、そして榛名山は何事もなかったかのように時間が流れている。中には榛名山が火山であることすら知らない人もいる。甲を着たまま火砕流に倒れた彼が居続けたその場所は、道路に変わろうとしていた。
 だが、榛名山の本質は変わらない。山の表面がどう変わろうと、いつ牙を剥くかわからない火山である。1000年、2000年などという時間はあって無いようなものだ。ひとたび本性を現せば、軽石を飛ばし、火山灰を吐き出し、火砕流を流す、手のつけられないような山に変貌する。地球の営みの前では人間の力など無い等しい。火砕流に倒れた彼も、今の我々も、それは全く変わらない。
 火山のスケールを前にして、我々はあまりにもはかない存在なのだと、1500年前の亡骸が思い起こさせてくれていた。

 甲を後から見たところ。右足の大腿骨が見えている。




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