2012年10月
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まだ朝の早い時間。軽トラックが勢いよく庭に入ってきた。あの勢いはNさんかな、と思っていたら、眼の前でキュと車を止めて予想通りNさんがニコニコしながら出てきた。 「シカがかかった!今度のはでかい。すごい角を持っている。」 Nさんはエネルギッシュに朝から晩まで榛名山麓を所狭しと動き回っている。榛名山西麓のいたるところに畑があって、春から秋にかけてほとんど休む間もなく働き続け、夏には直売所も経営したりしている。その上、イノシシ退治にも力を入れていて、あちこちに罠を仕掛けてあって、毎朝のようにパトロールまでしているのだ。そんなわけで、家の前の農道をのんびり散歩していると、かなりの確率でNさんの自動車と遭遇するのである。 そのNさんは、何か罠にかかると、ときどき教えてくれて、見に行かないかと誘ってくれるのだ。 その日、いつものようにNさんが罠のパトロールに行くと、仕掛けておいた罠が消えていたのだという。Nさんの罠は「くくり罠」で、獣が通りそうな場所にワイヤーの輪を置いておき、イノシシなどが足をその中に入れると、ギュっと閉まる仕組みになっている。もちろん、罠の輪は近くの木に結び付けておくので、獣は逃げることはできない…はずなのだが、あろうことか、罠は結び付けてあった木ごと消えていたという。 結び付けてあった木は太い枯れたヤマグワだった。イノシシがかかったのならばその枯れ木で十分持ちこたえられるはずと、Nさんはふんだはずだ。ところが、その木は根元から折れ、罠とともに消えていたのである。何ものかが罠にかかって、そのまま木を引きづって逃げたとしか考えようがなかった。 そんな木を折って、引きずって逃げるなどという奴は大物に決まっている。Nさんは緊張と恐怖に包まれながら、跡を追ったのだという。今年、このあたりではツキノワグマが3頭捕らえられているから、クマの可能性も頭をよぎったという。木を引きずって逃げているのだから、その痕跡は完璧に残っていた。 恐る恐る跡を追いかけたNさんが見つけたのは、巨大なシカだった。罠のあった場所から小さな沢を下り、また登り返したあたりで、ついに木とワイヤーが何かに引っかかって身動きが取れなくなった状態で見つかったのだった。
今年になって5頭目のシカ。 榛名山麓へ越してきてからすでに9年という時間が経過したけれど、昨年までここでシカを捕まえたという話は聞いたことがなかった。イノシシのことはよく話題にもなるけれど、「シカを見た」というのは珍しい部類に入っていたものだ。 ところが、今年になってからそのシカの話も、罠にかかったという話も急に増えてきた。 シカの食害については全国のいたるところで聞くが、ここ榛名山麓では大丈夫、と少し前までは思っていた。だか、事態は変わってきたらしい。 今年、雲取山への埼玉県側からの登山口にあたる三峰神社の周辺で、シカの食害についての観察会に参加したことがある。間違いなく限界集落だろうと思われるその場所は、山の急斜面で、こんなところに家があるのかと思うようなところだった。そこに広がるスギやヒノキの植林された林には、ほとんど下草が無かった。シカに食われて無くなっていたのである。もちろん、隣り合う雑木林の下草もない。シカが食わないというフタリシズカとワラビだけがかろうじて緑色の色彩を残していた。 人の手が入らなくなって林が荒れた、というとササが生え、あちこちに立ち枯れ、あるいは倒木、というのが榛名山麓でのイメージだが、ここでは違っていた。ヤブは存在せず、どこでも好きなところへ歩いて行くことができた。ササさえもシカが食ってしまっているのだ。 そんな食害地帯で、シカよけのフェンスで囲まれた場所が何ヶ所かあった。そこには対照的に驚くほどたくさんの植物が密集していた。シカがいなければ、こんなにもたくさんの植生があるのか、と驚くようなヤブである。 埼玉県でレッドデータの調査をしている人から聞いた話によると、奥秩父、奥武蔵では急速に植物の種類が減っているという。その主な原因はこのシカなのだとか。 確かに、シカが増えすぎてしまって、植物相が貧困になったという話はよく聞く。 日光の戦場ヶ原、霧ケ峰、北八ヶ岳、足尾、丹沢、尾瀬ヶ原…。屋久島でもそうだった。事態は急速に日本全体に広がっているような気配である。 かつて、シカの天敵はニホンオオカミだった。だが、ニホンオオカミが絶滅してしまったから、シカが増えすぎた、というのはすぐには成り立たない。ニホンオオカミが絶滅したとされるのは明治の時代のことだ。 ニホンオオカミのいなくなった日本ではシカの天敵はヒトだけとなってしまった。生態系のピラミッドの頂点に立つのは普通は猛禽類や肉食獣のはずなのだが、シカの上に位置する生物はヒト以外にいなくなっていたのである。 だが、今、狩猟によって生計を立てようという人は皆無といっていい。趣味でハンティングを楽しむ程度の人がわずかにいるだけである。そして、そのハンターも高齢化し、今や絶滅危惧種となりつつある。もはやシカの天敵はほとんど存在しなくなったと言っても過言ではない。天敵のいなくなったシカは増える一方なのだ。 減れば保護政策がとられ、増えれば捕獲、というようにこれまでヒトは必死に生態系のバランスを取ろうとして頑張ってきたように見える。だが、ニホンオオカミの絶滅後、代わりにその役割を果たしてきたヒトももう手に負えなくなってしまったというのが現状ではないだろうか。 生態ピラミッドの頂点を失った生態系のバランスは崩れるに決まっている。 かろうじてバランスを取っていたかのように見えた生態系だが、実はとっくに破綻していたのかもしれない。それは、次々と絶滅していく野生動物が証明しているようだ。 加えて、温暖化により積雪量が減ったというのもシカの数に影響を与えているという指摘もある。 さらに、今はシカの問題がクローズアップされる傾向があるけれど、同じようなものにカモシカもいる。カモシカは特別天然記念物となっていて、捕獲することはできないから、より難しい問題を抱えているはずだ。 シカが増えすぎた森林には下草が育たない。裸地に集中豪雨が降れば、土砂は簡単に流れ出していく。植物のない斜面が崩れていくのは、時間の問題だ。シカに食われて希少種がなくなるというレベルでは事は終わらない。 ニホンオオカミを絶滅させたというツケは、今、ボディーブローのようにゆっくりと都市部以外のところで効きはじめているような気がしてならない。 |
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