ほたるがいなくなってから20日。
いつもほたると歩いた散歩道をひとりで歩いてみた。今シーズン最大に降った雪の雪解けの水が道を濡らしていた。
いつもの散歩道の最終地点近くになる中野さんちのダチョウの小屋の向こうの電線にはいつものノスリがいた。たぶん、もうお互いに顔なじみになっただろうというノスリである。ほたるといっしょにここまでやってくると、よく頭上のコナラの枝で目を光らせていたものだ。
このノスリが突然飛び立ったかと思うと、ダチョウの柵のすぐ上まで飛んできて、道脇に生えているコナラの枝にとまった。ちょうど人の目の高さと同じくらいのところで、距離にしてわずか5mといったところ。いままで、こちらから近づいて飛び去られたことは何度もあったけれど、向こうから近づいてくることなど一度もなかったのに、今日だけは向こうから至近距離に近寄ってきた。まるで、何か用があるかのようだった。
このノスリはほたるがどこにいるのかを知っているのかもしれない。それを伝えようと近づいてきたようにしか思えなかった。
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近づいてきたノスリ
何か言いたげにこっちを見ているように見えたのだが… |
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細くなってしまったほたるの首から首輪がスポッと抜けて、ほたるはどこかへ行ってしまった。冬の特に寒い日のことである。
15歳の老犬は死に場所を探していたのかもしれない。
近所、そしてかなり離れたあちこちの集落へとビラを配り歩いて探した先々で、「猫や犬は死ぬときは、人から離れた所へ行って隠れて死ぬんだ」という話を聞いた。めっきり体力が落ち、歩く力もなくなってきたほたるにはもうそれがわかっていたのだろうか。
最近、ほたるはどこか遠くへ行きたがっていた。
歩くのもやっとというときでも、玄関から散歩にでかけるときにはいつでも喜び勇んで出かけたものだ。そして、先に立ってどんどんと歩いていった。散歩の終着点に着いても、まだ先へ行きたがっていた。どこまでも、どこまでも歩き続けたかったのかもしれない。歩き疲れて、倒れるまで歩きたかったのかもしれない。
最近では、行くときにはまっすぐ歩いていた道を、帰り道ではとたんに歩みが遅くなり、あちこちで道草をくうようになっていた。疲れて歩くのが億劫になったのだろう、と思っていたのだけれど、今思えばそれは“帰りたくない”という意思表示だったのかもしれない。帰り道、ダチョウの小屋の上の崖の上に立ち、遠くを見るような目で、眼下に開けた畑をじっと見ていた姿が忘れられない。
おまえは力の限り遠くまで行って、力を使いはたして逝きたかったのか…。
ほたるがいなくなって数日たったある日、運転する自動車のカーラジオのスイッチを入れたとたん歌が流れてきた。
…
寿命とは命を寿ぐという意味なんだ
今日まで生き抜いたこの命をどうか慶んでほしい
…
最後まで聞くことができず、すぐにスイッチを切った。そして、またすぐにつけた。
それが「寿ぎ(ことほぎ)〜君への遺言〜」という曲であるということをかろうじて知った。
ことほぎ 〜君への遺言〜 高野健一
歌詞はこちら → あるいは こちら →
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ほたるは、今どこでどうしているのだろうか。
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