榛名山の南西面、李が岳(1292.3m)から南に派生する尾根上に「味噌玉岩」の名前がある。 手持ちの昭文社の「山と高原地図」(2001年版)では杖ノ神峠から李が岳までは赤線の登山ルートが描かれているが、そこから味噌玉岩へは登山道の印はない。国土地理院の地図では、味噌玉岩の南西から味噌玉岩を通って李が岳へ抜けるルートが点線で記されているからまるで道がないわけでもないのだろう。それも1本のルートではなく、入口は数か所あって、それが味噌玉岩の南で尾根に合流しているのだ。とはいえ、こんな道を通る人はそういないだろうから、一筋縄ではいかないだろうということも十分予期できた。 |
冬枯れとなった11月のある日、その尾根の末端から味噌玉岩を目指した。 「味噌玉岩」という不思議な名前を持つ岩へ続く尾根は、ロイヤルオークCCの北、「はんな・さわらび療育園」のすぐ上を通っている。 検討の上でルートはここから尾根を辿ることにした。ここには国土地理院の地形図にも道を示す点線ルートはないが、尾根上に665.2mの三角点が道路のすぐ近くにある。ここを目指し、そのまま尾根を北上しようというものだ。たいてい、尾根には踏み跡が残っているという経験則からの結論である。 案の定、はんな・さわらび療育園の上を通る細い舗装道路からは尾根に向かって地図には無い道が続いていた。密生した篠竹を切りはらった道で、両脇には背の高さよりも高い篠が視界を阻んでいた。最近切りはらったような跡があって、篠を切った跡が足元に竹やりのように突き出ていたりする。転んだらひどい事になりそうだ。しかし、そんな道も三角点までだった。道路からそんな道をちょっと行くと、三角点を示す石柱と白い国土地理院の標識が刈りはらわれた篠竹の中の小さな広場にあって、それより奥には視界の利かない密生した篠竹が行く手を阻んでいた。この篠の切り開きは測量のために国土地理院の関係者が作った道だったのだろう。 この篠竹の密林を漕いで行くのは相当な覚悟が必要だ。正面突破は無謀とも思えた。どこまでこの密篠が続いているのか見当もつかず、突破できたとしても時間切れとなる可能性は高い。 そこで、作戦変更。尾根からわずかに西にそれたところに国土地理院の地形図には破線の道が描かれているので、それをたどることにした。この破線で描かれた道は、やがて尾根に合流することになる。だが、使われていない尾根や沢筋以外のところを通っている道は往々にして薮になっているか、途中で切れてわからなくなっていることが多い。ひとたびこんな地形に沿わない道でルートを失ったら、GPSなしでは位置を把握するのは困難なことになる。 道の入口はすぐにわかった。やはり、薮に覆われている。ススキやクズの葉が道を覆い隠そうとしていたが、かつては4輪の車両が通ったこともあるだろうというくらいの道幅があった。歩く人のいない山の中の道は、そこだけ切り開かれているぶん、太陽の光がよく当たり、草がよく生い茂るものだ。それもトゲや蔓のマント植物と呼ばれるヤブこぎには大敵な植物であることがほとんどである。 しかし、これくらいの薮ならば、密篠を漕いで行くよりずっとましだった。藪の中からイノシシやクマが出てくる心配はないこともないが、それは尾根沿いの藪でも同じことだ。 薮の入口からしばらく簡単な藪こぎをすると、道は雑木林の中に入った。そこは上空が葉で覆われていたため、下草はほとんどなく、藪こぎからは解放された。雑木林の中は人の手が入っているような感じもあって、笹が茂っていることもなかった。快適な雑木林である。だが、それも長くは続かなかった。 道が雑木林を抜け、緩やかな尾根にさしかかろうとするあたりで再び藪になった。立ちふさがったのは棘の生えた大きなクマイチゴの木、そして、背丈ほどの笹。そんな薮を10mほど進んだところで、道も分からなくなった。その先には、あの篠竹が待ち構えていた。おそらく、国土地理院の地形図の破線の道はこの薮の下にあるのだろうが、もはやそれは道ではなかった。 さらにルート変更。少し戻って、藪のない雑木林の斜面を北上し、小さな尾根の上に出でから、本命の尾根に乗ることにした。 道のない斜面を適当に這い上がると、向こうについ先ほどまでいた藪が見えた。俯瞰してみれば、それは藪の海のようだ。あんな藪に突っ込まなくて本当によかった。突っ込んでいれば迷宮だった。 雑木林の尾根から向こうには篠竹が樹海のように広がっていた |
雑木林に入って藪こぎから解放された 再び立ちふさがった篠竹の壁 |
位置さえ把握できていれば快適な道のない雑木林の斜面を少し行くと、意外なことに前方に忽然と廃屋が現れた。藪を越えて、人の気配がだんだんと薄くなってきたと思ったところに、再び人の生活の痕跡に出会うとは…。 すっかり風雨にさらされて腐ってしまった材木が林の中にかろうじて立っているようだった。廃屋には絡みつくように蔓が伸びていた。あるいは、この蔓のために廃屋はまだ崩れずにそこに立ち残っているのかもしれない。雨を防ぐ屋根はすでにほとんど残っておらず、トタンが散乱していた。 さらに近付いてみると、かろうじて立っていた材木の残骸の東側には、基礎だけが残っていた。時として、山の中に使われなくなった作業小屋が廃屋のように残っていることがあるけれど、そんなものには立派な基礎など無いといっていい。これはほぼ間違いなく人の生活していた家の跡だ。 電気は通っていたのだろうか。ここへ来るまで電柱の痕跡は見当たらなかった。 水はどうしていたのだろうか。地形的には尾根に近く、沢の水は得られない。近くの沢の地形の所でも表面に水はなく、枯れ沢となっている。井戸を掘ったとしても、ここは地下には榛名山の溶岩があるはずだ。 地形図で見れば標高は700〜710 m。冬の寒さは相当なものがある。こんな所に人が生活していたとは。 廃屋の北側には道の跡があった。庭だったであろう所から続いている道の跡は、あの密生した篠竹へと続いているようだ。篠竹の下に消えてしまった破線の道は、ここへつながっていたのだ。地形図に残る破線の道はこの家に住んでいた人たちの生活道路だったのだろう。 そう思ってあらためて地形図を眺めてみた。すると、等高線の間隔が妙にここだけ広く、地図記号では荒地を示していた。荒地の記号のあるこのあたり一帯がこの家の耕作地だった可能性がある。 いったい、いつごろまで使っていた家なのだろうか。人が自然に手を加えなくなって、どれくらいの時間がたてばこんな様子になるのか。
街の中にも廃屋はある。その多くはしばらくはそのままであったとしても、ほとんどの場合、誰かが取り壊し、また新しい何かが作られる。自然に帰っていくことなどまずない。 だが、ここでは違う。 人は自然の一部を借りて住まわせてもらっているのだ。だから、その必要がなくなれば、そこは自然に帰っていく。そんな当たり前のようなことが、当たり前に起こっているのだ。 この廃屋ももうすぐ跡形もなく、自然に同化していくことだろう。そして、破線の道を消していった密篠もいつか別の姿に変わっていくかもしれない。林の中では、自然の力と時間の力は人の痕跡など確実に消し去っていくのである。それはなんだか、地球の歴史のひとコマを見ているような気がした。 |
ここからは、稜線沿って境界の杭が続いていて、途中の林道を横切り、さらに味噌玉岩南西の974.7mの三角点を経由し、1047mの岩のピークまで無事に到達した。 |
2011.11.19. 追記 |
Wさんから情報を頂きました。 廃屋のあたりはかつて牧草地で、競走馬を育てていたらしいとのことでした。 さらに、「わっと雑記帳」に味噌玉岩付近のルートに関する情報があります。 ・蘭津から味噌玉岩・杏が岳 ・杏が岳中央稜 |
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