2010年6月

マックノート彗星


 彗星を見る機会はまさにそのときしかない。
 彗星の多くは一度出会うと、もう死ぬまで見られないというものが多い。あの有名なハレー彗星の周期は約76年。人間の平均寿命と同じくらいだから、ほとんどの人は、ハレー彗星を見る機会は一度だけだ。前回ハレー彗星が地球に接近したのは1986年のことだったから、次にハレー彗星が見られるのは2062年ころだろうか。今年生まれた子供たちは52歳くらいになったときにその姿を見ることができるのだろう。
 だが、そうやって再び地球へ、正確には太陽へ帰って来ない彗星も少なくない。非周期彗星とされる彗星たちだ。この非周期彗星の軌道は楕円軌道ではなく、放物線あるいは双曲線の軌道である。彗星の巣“オールトの雲”から太陽に引かれて、たった一度だけ太陽に接近し、最接近した後はもう二度と戻っては来ない。地球上で何年生きていようと、二度と見ることのできない彗星たちなのである。
 2009年9月9日、オーストラリアのサイディング・スプリング天文台のR.H.マックノートが発見した彗星もそんな彗星の一つだった。マックノート彗星(C/2009R1)と名付けられたその彗星は、ぐんぐんと明るさを増し、もうすぐ肉眼でも見える彗星となろうとしている。
 肉眼で見える彗星というのはほとんどない。数年に一度という頻度だろう。この明るい彗星を見逃しては後々まで後悔は残る。今になって、あのハレー彗星の満足な写真を撮れなかったことを悔やんでいたりするのだから、それは確かだ。
 だが、マックノート彗星のいる位置は北東の空、それも明け方の空である。日の出の前の時間に東の空に昇り、わずかな時間で薄明の中に消えていってしまう。彗星の明るさが増すということは太陽に近づいているからで、その結果、自然と太陽に近い位置に彗星が見えることとなるのである。だから、明るくなるとはいえ、明るくなるほど見づらい位置になる。これから明るさを増しながらも、夜が明けるときの高度をぐんぐんと下げていく。7月になると太陽に近づきすぎて見ることはできなくなるだろう。
 悪いことに、望遠鏡が置いてあるスライディングルーフの北から東にかけては林が邪魔をしてしまって、その位置では見えない。もしかしたら、庭の一番南西の場所からから北東の空を林越しに見たら見えるだろうか。
 しかし、6月の空はなかなか晴れてはくれなかった。

 やっと晴れたのは6月7日。午前3:00、庭へ出てみるとアンドロメダ座が北東の空に高々と昇っている。この日のマックノート彗星の位置はアンドロメダ座γ星とさんかく座β星の間にあるはずだった。双眼鏡を持って、庭先で北東方向が一番下の方まで見える場所へ行って空を眺めてみた。見えている星から推察して、彗星はすでに良い位置はまで昇っているはずだ。
 さんかく座の底辺をつくるγ星とβ星を確認して、彗星の入るべきあたりを双眼鏡で捜すと、あっけなく、明らかに恒星ではない拡散した光を見つけた。この日の予想光度は5.3等。見た感じは大体そんなところだろう。肉眼ではさすがに見えない。
 しかし、彗星を見つけたときにはすでに何となく空は明るくなる気配を漂わせ始めていた。望遠鏡を持ち出す暇などない。急いで、三脚にカメラをセットすると、カメラのレンズを使って80秒ほどの露出で固定撮影してみた。それでもデジカメのモニターには緑色の彗星らしい光が記録されていた。だが、細部はわからず、ただそこに恒星ではないものが写っているというだけだった。もう1カット撮影しようとシャッターを切る、が明らかに周囲の明るさは増している。薄明が始まると夜が明けるのはとても早い。夜明けの彗星の撮影は時間との勝負だ。久しぶりの早朝撮影はちょっと甘く考えすぎていた。


 とりあえず、彗星は確認できた。だが、望遠鏡を使ってもう少し詳細な尾が伸びている写真を撮りたい。これから彗星はもっと低空になっていくので、自宅からではとても望遠鏡を使っての撮影は不可能だ。とすれば、望遠鏡を持って、見えるところへ出かけるしかない。
 こちらに転居してからというもの、しばらくの間、望遠鏡を自動車に積んで、移動しての撮影をしていない。機材は大丈夫だろうか。
 移動用の赤道儀はタカハシのEM-10。働き出して最初のボーナスで買ったものだ。EM-10も今ではずいぶん進化して、自動導入装置もついているが、これはいわばプロトタイプ。EM-10が発売されて間もなく購入したものだが、いまだに壊れたことはない。これに口径76mmのフローライトレンズの屈折望遠鏡を載せる。
 バランスウェイト、赤道儀を載せる三脚、組み立てるための工具、直焦点用撮影用のアダプター、カメラ… いざ移動撮影をしようとすると、用意するものが多くてたいへんだ。一つでも忘れると撮影できない。
 そんな機材のうち、大切なものが壊れていた。電源である。赤道儀を駆動するためには直流12Vの電源が必要なのだが、そのための電源としてポータブルの充電式の電源を持っていたが、これがいくら充電しても充電できない。24時間以上も充電していたのに、いつまで経ってもFULLにはならないのだ。
 仕方ないので、直接自動車のシガーライターのソケットから電源をとることにした。だが、これでは自動車からあまり離れた場所には望遠鏡を置けない。ケーブルの届く範囲は自動車のドアからせいぜい3mくらいだ。だから、彗星を見る場所は自動車が入れる場所で、北東の空が下の方まで見えるという場所に限定されてしまった。ロケハンが必要だった。

 自宅で彗星を見てから、星空の見えない日が続いていた。やはり6月なのだ。長期予報でも、しばらく晴れ間の予報はない。最悪、このまま梅雨に入ってしまい、もう二度とこの彗星を見ることはないかもしれないという悪い予感がおこる。
 曇り、そして雨。豪雨…。
 豪雨は雷まじりだった。これは上空に寒気が入っているからだろうか。とすれば、雨の後には透明度の高い晴れ間がやってくるかもしれない。わずかな晴れ間でいい。その時間帯だけ、北東の空だけでも晴れてくれれば…。
 6月14日。天気予報は曇り。だが、仕事から榛名山麓へ帰りつくと、空の雲は切れそうな様子を見せていた。豪雨のあとには透明度の高い空…、予想通りの展開だ。気象予報士も逃げ出すような都合の良い展開。午後11:00を過ぎる頃には、ちらほらと星空が見えてきた。これは晴れるかもしれない!
 日付が変わった午前2:00前、撮影機材を自動車に積み込み、ロケハンしてあった榛名山の沼の原へ。空は完璧に晴れているわけではないけれど、このチャンスを逃したらもう後はないかもしれない。
 
 自動車を止めると、静寂が戻ってきた。近くで不思議な声の鳴き声がする。何の声なのか見当もつかない。が、この際、そんなことは深く追求はしない。今は、彗星だ。
 カシオペア座が高々と見える。その下にはペルセウス座。この日、マックノート彗星はペルセウス座にいるはずだ。彗星はすでに昇っているはずである。8日前に見た時から比べて、彗星のいるはずの位置はずっと北へ移動している。
 双眼鏡で探ると、彗星はすぐに見つかった。双眼鏡では尾までは見えないけれど、拡散した姿がわかる。
 いつまでも晴れているとは限らない。双眼鏡で確認しただけでは以前と同じだ。今日はもっと詳細な写真を撮らなければ!急いで望遠鏡の組み立てにかかった。
 三脚を組み立て、赤道儀を載せ、バランスウエイトを取り付け、鏡筒バンドを取り付け、望遠鏡を載せる。自動車からバッテリーを引き、赤道儀につなぐ。そして、北極星を目印にして、赤道儀をセット。望遠鏡にカメラアダプターを取り付け、カメラを取り付ける…。
 準備がととのい、望遠鏡が彗星を捉えたのはすでに午前3:00が近づいたころだった。もう薄明の時刻である。これからは急速に夜が明けていく。
 彗星を写野の真ん中に捉えて、最初のシャッターを切ったのは午前3:01。シャッターを切ってからゆっくり180を数えた。約3分の露出を測定するためだ。
 シャッターを閉じると、驚いたことにモニターには写野からはみ出すほどの尾が映しだされてきた。肉眼では見えないけれど、長い尾があるのだ。彗星の核を写野の真ん中にしたのでは、尾は写りきらない。尾のある方向を考えて、写野を変更しなければならない。
 カメラの方向を少し変え、再びシャッターを切った。同じようにカウント180…。
 今度はさっきのよりも背景がもっと青くなってしまった。彗星の尾ももっと短い。明らかに空が明るさを増したのだ。こうなってしまってはもう最初のカット以上の長い尾を撮影することは不可能だ。結局、この日の最高の彗星の尾は最初の尾のはみ出した写真だった。再び、夜明けとの競争に負けた。教訓は生かされていない。

マックノート彗星
2010年6月15日午前3:01
187.5秒露光



 再再挑戦は1日明けた17日の明け方。この日の天気予報は久しぶりの「晴れ」。仕事から帰ったときに見た空は抜群の夜空だった。
 2日前の教訓により、さらに早く自宅を出発。午前1:30、榛名山の沼の原までの道のりでは一台の対向車もいなかった。駐車した場所では、前回と同じように不思議な声がする。
 余裕をもって準備、と思って自動車を降りると、なんとしたことか、星空はすじ状の濃淡のある雲に覆われてしまっていた。南のいて座のあたりだけはクリアだが、問題の北東の空は雲の中。それでも、晴れ間はあるので、希望はある。北東の空が晴れることを信じて、望遠鏡を組み立てた。雲の濃淡が移動して、2等星くらいまでは、確認できるので、北極星を見つけ、望遠鏡のセットもできた。あとはできるだけ雲の薄いところが北東の空にやってくるのを待つだけだ。
 時刻は刻々と過ぎていく。南の空は比較的空いていることが多いのに、東の空には雲が多い。
 この日のマックノート彗星の位置はペルセウス座のυ星の近くのはずだが、もっと明るいペルセウスα星が見え隠れしているくらいで、双眼鏡で見ても、υ星はなかなか確認できない。すでに、前回の撮影した時刻になろうとしていた。
 やっと、晴れ間がペルセウス座のあたりにまわってきたのは、午前3:00をすぎたころだった。すでに薄明は始まっている。
 大あわてで、彗星を探す。前回は双眼鏡ですぐに見つける事ができたのだが、なかなか見つからない。時間はどんどん経過し、空はどんどん明るくなっていく。余裕のはずだったのだが、今回も時間との勝負となってしまった。
 何度も星図と見比べ、彗星を望遠鏡の視野に導入できたのは、手元が照明なしでもわかるような明るさになったときだった。
 すぐにシャッターを切った。この明るさでは3分も露出できない。シャッターを切ってから約30秒くらい経過したところで、露光を閉じた。モニターに映し出された画像のバックはすっかり青い色となってしまっているが、かろうじて彗星の姿があった。長いイオンの尾と短いダストの尾がわずかに見える。時間切れギリギリ。梅雨の合間の空はお情けのように最後に彗星の姿をみせてくれたのだった。


マックノート彗星
2010年6月17日 午前3:14   28.8秒露光
   

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