2010年1月
スルス岩下に幻の隧道をもとめて


 榛名富士の南東。沼の原の縁にスルス(磨墨)岩と名付けられた岩がある。夏になるとユウスゲの花が咲く“ゆうすげの道”から見ると、尖った相馬山の右に、高さはそんなにないのだが、存在感のあるゴツゴツした岩山が目に飛び込んでくる。それがスルス岩だ。遠くから見ると登れそうもないように見えるが、実は核心部にはハシゴがかけられていて、そんなに苦労することもなくその頂上に立つことができる。その岩の一つにはカラス天狗が置かれていて、榛名山を見張っているようだ。
 2009年4月に上毛新聞社より発行された「なるほど榛名学」によれば、そのスルス岩の下には隧道が掘られ、しかも、その途中で工事は放棄されて、隧道の口が開いたまま残されているという。そんなものがあるのならば見てみたい。単純な好奇心からその隧道探しは始まった。

 「なるほど榛名学」によれば、その隧道計画は1708年に遡る。時代は江戸時代、宝永5年。高崎藩主・大河内左京太夫輝貞(松平左京)が領内の慢性的な水不足を解消するために、榛名湖の水を榛名白沢に落とそうと計画し、翌年よりスルス岩の下を掘りぬくべく村人を動員して工事が始まった。ところが、すでに榛名湖の水を沼尾川を使って利用していた岡崎新田村(現吾妻町岡崎)から反対運動がおこり、さらに事故も重なったりしたため、工事は中断され、そのままとなってしまった、とある。
 300年以上の年月を経てなおスルス岩の下に口を開けているという隧道の夢の跡、いったいどんなものだろうか。

 最初の探索は2009年7月の下旬。ユウスゲをはじめとした夏の花が沼の原を彩るころ、沼の原からスルス峠へ上がり、外輪山の外側へ下って探そうと試みた。スルス岩のすぐ下には、「行人洞」という洞窟があって、不動明王や役の行者らが祀られている。そこへは道標もつけられていた。スルス岩は集塊岩あるいは凝灰角礫岩でできていて、この類の岩石が風化すると、洞窟や洞門といった奇怪な姿を形成することが多い。有名なところでは妙義山もそんな山である。榛名山の近くでは、榛名山の北側にある岩櫃山や瀧峨山といったものも同じような岩石でできている。スルス岩の下をくりぬこうとしたのはそんな洞窟を利用して掘り進んだのではないだろうか。そう想像して、スルス岩の南面を下ることにした。
 ところが、その企ては夏草に阻まれた。ヤブこぎをしながら岩場を下るのはスリルがあるというより、危険であった。岩場で夏草のヤブでは下がどうなっているのかよくわからない。最初の踏査はこうして隧道跡発見に至る前に終わらざるを得なかった。



1回目の探索の教訓から、2回目は季節を変え、夏草のなくなった冬。それも、上から探索するのではなく下から。最初に「スルス岩の下を掘った」というのが頭にあったため、どうしてもスルス岩を中心に考えてしまったのだけれど、理論的に考えれば、榛名湖の水を引くのだから、隧道口のある位置は榛名湖の水位と同じか、あるいは低くなければならないはずだ。榛名湖の水位は地形図で見ると標高1090m前後である。そして、「榛名白沢に落とす」というのだから、榛名白沢を下から遡行すれば見つけることができそうではないか。榛名白沢をつめた標高1090m付近が有力候補地ということになる。
 榛名白沢はスルス岩の南側にある谷を源として、途中、ロッククライミングのゲレンデとして使われる黒岩を右岸に、鷹ノ巣山を左岸にみて、さらに相馬ケ原陸上自衛隊演習場をかすめ、箕郷町へと流れ下る。地形図を見ると、この沢には驚くほどたくさんの砂防ダムが作られている。榛名山が活発な火山活動をしていた時、この沢沿いに火砕流が頻発し、この流域にはそのときの堆積物がたまっているのである。それを防ぐためのダムだろう。
 地形図をにらんで、ルートを定める。山頂カルデラの縁にあたる松之沢峠から道路を下って、右手に1236mのピークが過ぎたあたりから等高線の間隔が広くなった付近を沢沿いに降りたらどうだろうか。松之沢峠から300mあまり行ったところだ。そこから榛名白沢が4つにわかれる標高990mあたりの砂防ダムの上に出る。

 

 1月のある日、2回目の探索。
 計画通り松之沢峠から道路沿いに下る。道路からは榛名白沢の谷がよく見渡せた。途中、榛名白沢への下降ルートとなりそうな場所を探りながら歩いていると、いつの間にか1236mピークの脇あたりまで来てしまった。そこまで、どこからでも降りられそうだったのだが、どこでも途中でヤブになりそうな様子だったので下降点を定められないまま来てしまったのだ。すると道路が大きくカーブするあたりにガードレールが切れている場所があった。その先には作業道らしい道がついている。黒岩とスルス岩の中間あたりにポッコリとある標高約1070mの小山へ続く小さな尾根へ向かっているようだ。
 幸いとばかり、その尾根筋の踏み跡を行ける所まで行ってみようと足を踏み入れた。以前降った雪がところどころに残っていて、ウサギやらタヌキやらの足跡がいくつも残っている。
 踏み跡は1070mのピーク手前のコル(標高約1050m)まで続き、そこからさらに山腹を左に巻いて、北北東に派生するかすかな尾根へと続いた。途中には古い炭焼きの跡も残っていた。それはこの踏み跡がずっと前から使われていたものであることを示していた。地形図を見ればこのかすかな尾根はそのまま計画していた砂防ダムの上へ続いている。
 道路から降りはじめて約30分。案の定、その踏み跡は榛名白沢本流へと到達した。まさに砂防ダムの上である。何のための道なのか。踏み跡はそこで消えていた。
 沢はほとんど枯れていた。砂防ダムの上は上流からの土砂が堆積し、棘の生えた低木が茂っていた。わずかな沢の水はこのガレの下を伏流しているのだろう。
 沢はそこで3つに分かれているように見える。上流に向かって左の沢は下ってくる予定だった沢。右の沢は完全に枯れ沢となっている。中央の沢の上にはスルス岩が見えていた。行くべき沢はこの中央の沢だ。
 低木をかき分け、低い堰堤を2つ越える。落葉が厚くたまった下には氷と水が現れてきた。ガレがなくなり、不透水層が現れてきたのだろう。ところどころにイノシシの仕業なのか、カモシカの仕業なのか、沢底をかき回したようなところが続く。沢の側面には火砕流の堆積物らしいボロボロの土砂。それがときどき崩れ落ちてくる。この沢はものすごいスピードで崩壊しているのだ。
 降り立った砂防ダムの上から歩き続けて約30分。沢はついに沢というより源頭といっていいような地形となった。
 すると前方に小さな板きれがぶら下がっているのが見えた。それも2つ。さらにいくつかのカラーテープも風に揺れている。そのさらに奥に穴が!
 隧道口である。近づいてみると、ポッカリと開いた穴から水が流れ出ている。板きれには“右京の泣き堀”と手書きされた表示と簡単な説明。ふと横を見れば、沢の両側に小道らしいものが見える。ここへの入口を示すものはどこでも見たことはなかったのに。この道はどこへ続いているのか?おそらくもっと楽に来られるルートがあったのだろう。
 隧道はスルス岩と同じ角レキ岩を掘り抜いていた。入口は左側からの土砂がわずかにかかっているが、右側は掘ったそのままの四角い壁面が見えている。天井はしゃがんで歩けば余裕のある高さである。
 少し隧道に入ってみた。隧道の断面は長方形となっていて、人工的に掘られたということがよくわかる。奥へ入るにしたがって、底の土砂はなくなり、染み出してきたのであろう水の流れがはっきりしてきた。5,6mくらい入ったところで入口を振りかえると、外の世界がとても眩しく小さく見えた。
 300年前、どんな気持ちでここを掘り進んだのだろうか。岩盤はけしてやわらかいものではない。工事の途中では落盤事故もあったり、死傷者も出たという。人間の手だけでこのスルス岩下の岩盤を掘り抜き、榛名湖まで水路を通そうとしたその遠大な計画を思うとき、人間のたくましさを思わずにはいられない。
 掘り抜いていたならば榛名湖から豊かな水が流れ落ちていたはずの隧道の口からは、今も、岩盤からしみ出してきた水が細いながら途絶えることなく榛名白沢へ水を落としているのだった。


松之沢峠下の道路から見たスルス岩


炭焼きの跡


榛名白沢本流の砂防ダム上


上流にも小さな砂防ダムが立ちふさがる


こんなガレ場も越えていく


ついに隧道口発見!

隧道の内部

中に入って入口を振りかえる



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