2009.1.

榛名山が埋めたムラ


 1月のある日、今は渋川市となった旧子持村にある黒井峯遺跡を訪れた。
 国道353号線から細い道を北へ、子持中学校を目ざしていくと、小高くなった場所にその遺跡はあった。地形的には利根川と吾妻川がつくった河岸段丘の上になる。だが、遺跡といってもそこにあるのは畑と「黒井峯遺跡」と書かれた標識と遺跡の説明板だけで、それらしいものはなにもない。
  遺跡はその畑の下に眠っているのである。
 遺跡が発見されたのは1982年。軽石の層の下から集落(ムラ)の生々しい生活の跡が見つかったのだ。説明によれば、軽石の厚さは約2m。その軽石の下から見つかったのは、住居跡はもちろん、家畜小屋、道、垣根、畑、柱、屋根、祭りの場所…など。生々しい痕跡がそっくりムラごと残されているのだとか。
 旧子持村は「日本のポンペイ」と呼ばれる。本場のポンペイはイタリアにあった古代都市で、近くにある世界的に有名なベスビオス火山の噴火によって、紀元79年のある日、一夜にして火山灰の下に没し、今では世界遺産にもなっている遺跡である。
 ここ日本のポンペイを襲ったのは榛名山。榛名山の最後の噴火と考えられている榛名山・二ツ岳の噴火で、吹き上げられた軽石が一瞬にして黒井峯のムラを襲い、埋め尽くしたというのだ。
 黒井峯遺跡のすぐ近くには1979年に同じように軽石の下から発見された中ノ峯古墳もある。この古墳が軽石に埋もれていたということは、あたり前のことだが、古墳が造られた後に軽石が降ってきたということを示している。そして、この古墳は二ツ岳からの火山灰の上に作られているということも調査で明らかになっているという。とすれば、この古墳がつくられたのはまさに二ツ岳が噴煙を上げている時代に作られ、二ツ岳の噴火によって、埋没したことを示している。
 黒井峯のムラを埋め尽くした榛名山の噴火はこんな古墳時代の出来事だったのだ。



中ノ峯古墳

中ノ峯古墳の石室の入り口

 黒井峯遺跡に立っていると、折からの強い北風が利根川沿いに上越国境から吹き下ろしてくる。高台にある遺跡には風を遮るものはない。だいたい遺跡というものはさびしいものが多いけれど、何もなく風だけが通り過ぎていく丘というのはあまりにも情景に合いすぎている。
  視線を遠景に移してみた。風を遮るものがない代わりに視界は抜群で、北には利根川上流の山々、東には赤城山、西は小野子山、そして、吾妻川の谷をはさんでは榛名山が大きく見えていた。
  地形図をみると、黒井峯遺跡の標高は約250m。そして、そのあたりの吾妻川の谷底の標高は200mくらいと読み取れる。その差50m。その50mのギャップがさらに榛名山を大きく見せている。さらに、冬の高度の低い太陽は榛名山の向こう側にあって、榛名山を黒々とシルエットで見せているので、威圧感さえ感じる。地形図で測ると、二ツ岳山頂と黒井峯遺跡の直線距離は約9.6km
  あの榛名山から軽石が飛んできたのだ。
 ポンペイを埋めたのは火砕流だったというが、ここを埋めたのは降ってきた軽石。
榛名山の山頂から吹き上げられたのは冷たい軽石ではない。榛名山の山頂から真赤になったマグマが地響きとともに上空に爆発で巻き上げられ、空を真黒にして、西南西の風にのって黒井峯のムラに降ってきたのだ。おそらく、その日もいつもと同じように過ぎるはずだったムラは突然のうちに、熱い降下軽石によって消え去っていった…。そんな様子が目の前の黒々と見える榛名山に重なる。
  足元に転がる無数の今は冷たく冷えた軽石。
 平穏な日常が当たり前に過ぎていく榛名山麓の足元は、いつの日も実は油断ならない生きている山だということを無言で語っているようである。


黒井峯遺跡から見た榛名山 
広角レンズで撮影するとこんなものだけれど、実際に見てみると、とても近く見える





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