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 細い月は夜半前にはすでに西の雑木林の上に傾いていた。天頂にあったときの暈はすでになく、輪郭のはっきりした月が北風に吹かれていた。
 「暈がかかると天気が悪くなる」という。たしかにそんな気もする。暈がかかるときは上空に暈をつくる原因となる氷の結晶がたくさん浮いているわけだし、そんなときは低気圧の接近の前触れとなる高層雲であることが多いのだから、この観天望気はかなりの確率で当たりそうである。
 では、この暈が現れた後のくっきりとした月の姿はどう見ればよいのだろうか…?

 翌日の答えは、「晴れ」だった。
 空が暗闇になるころ、榛名山麓の自宅に帰り着いて、いつものように、空の状態はどうだろうかと見上げると、真上近くには月齢6の月が鈍く光っていた。東側が欠けた三日月に近い形である。けれど、そのとき目を引いたのはそんな月の姿ではなかった。月のまわりに真ん丸く、月を取り囲むようにして暈がかかっていたのである。
 月や太陽に暈がかかるというのはそう珍しい現象ではない。よく注意して空を頻繁に見ていればときどきそんな光景にであうものだ。けれど、思い出してみると、月に暈がかかっているときの月は三日月のような細い月ではなく、かなり満月に近い丸い月であったような気がしていた。
 それほど珍しい現象でもない月の暈が目を引いた原因は、たぶんその月の形と暈にあったのだろう。おそらく、細い月では太陽からの反射光が少ないため、目立つ暈を作るまでにはならないことが多いのではないだろうか。
 薄雲の拡がった空の中で、欠けたぼんやりとした月の周りに測ったような真ん丸の暈。人工の光のない雑木林の真上の空はよく見ればかなり幻想的な光景だった。
 意外なことに、暈の濃さは月の形にはほとんど関係のないようだった。三日月なら暈も月の欠けている側は薄くなっているのかと思ったのだが、そうではなさそうである。均等に丸い暈がかかっているのである。
 天に向けてカメラを向けてみると、暈の大きさは予想以上に大きいことがわかった。手持ちの広角レンズでは一度にその姿を捉えることはできない。そして、目で見えているのに、数秒の露出では暈は写ってはくれない。30秒から1分の露出をすれば、なんとなく暈らしいものが写ってはくれるが、代わりに月は露出オーバーとなって、形などわからなくなってしまう。美しく月の暈の写真を撮るのはかなり難しいのだ。
 それでも1カットでは収まりきらなかった暈の写真を合成して、一枚にまとめてみると、白く飽和した月を中心として丸い光の輪ができあがった。光の輪の輪郭は内側がシャープなのに対し、外側は空との区別ははっきりしていない。さらに、画像処理ソフトで調整をしてみると、白い輪と思われた暈にも色が付いているのがわかってきた。内側が赤、外側が青っぽいのがわかる。虹は外側が赤で、内側が青になるからちょうど逆である。月の光は太陽の光を反射しているわけだから、虹と同じように分光するのは不思議ではないとしても、色の並ぶ向きが逆といものはどういうことだろうか。もっとも、虹では普通見える明るい主虹と、その外側にできることのある薄い副虹では色の並び方が逆だから、分光の仕方にはいろいろなパターンがあるのだろう。
 調べてみると、虹は球形の水滴の中を通過した光が屈折してできるのに対し、暈は六角柱状の氷の結晶の中を通過した光が作り出すものであるということがわかった。プリズムの役割をするものの形や状態が異なるのだから、同じ光でも分散する角度が違うのは当然といえば当然なのだ。




  左端にはオリオン座の一部が写っている。オリオン座と比較すれば、
 この暈の半径がとても大きいことがわかる。

 









2007.2.
月の暈